福知山市のシンボルとして、市の中心に聳えているのが、福知山市内記にある福知山城の天守である。
福知山城は、私が訪れた5番目の続日本100名城であり、12番目の日本200名城になる。日本200名城巡りを基準に考えると、私の日本全国史跡巡りは、ようやく全体の6%を終えたに過ぎない。
福知山城の東側に、福知山城公園の駐車場があり、そこに車をとめて、城の東側の濠に架かる昇龍橋を渡って城に至る。
文亀永正年間(1501~1521年)に、天田郡を領した豪族の塩見氏(横山氏)が、福知山城の前身である横山城を築いたという。
天正七年(1579年)に丹波を平定した明智光秀が、ここに福知山城を築城した。当時は福智山城と呼ばれていた。
その後、城主は変遷したが、慶長五年(1600年)から元和六年(1620年)に城主となった有馬豊氏の時代に、現在に残る城郭が整備された。
明治6年の廃城令により、福知山城の天守などの建物は破却されたが、戦後になって福知山市のシンボルとしての城再建の機運が高まった。
昭和61年に、有馬豊氏から松平忠房の時代の絵図資料を参考にして、3層4階の大天守と2層の小天守、続き櫓が再建された。
城の東側の坂道を登っていくと、再建された天守のある本丸跡に至る。
その途中、壮大な野面積みの石垣を目にすることが出来る。
坂道を登りきると、天守の西側に出る。
昭和61年に再建された福知山城の天守は、城郭研究の権威である東京工業大学名誉教授藤岡通夫工学博士が設計した二重櫓に、入母屋の大屋根をかけ、その上に小望楼を載せたものである。
天守は西向きに建築されたので、西側から見る姿が天守の正面の顔である。
再建された天守は、外壁が板張りのため、木造のように見えるが、鉄筋コンクリート造りである。
内部は福知山市郷土資料館として、福知山城に関する資料を展示している。
ところで福知山城で特徴的なのは、元々宝篋印塔や五輪塔だった石を、転用石として石垣の石材として使用していることである。
これらの転用石が使われるようになった理由として、光秀が治政に反抗的な社寺を打ち壊し、その社寺の石塔類を石垣の石材に使ったからだと伝わっている。
石塔類の石材には、銘文が残っているものもある。最も古いものは、延文四年(1359年)のもので、最も新しいものは、天正三年(1575年)のものである。
再建時の発掘調査で取り出された転用石が、本丸跡に並べて展示してあった。
この時の発掘調査で、約500個の転用石の使用が確認された。
宝篋印塔の礎石である地輪の石が多い。地輪の石を反対向きにして石垣に組み込んでいるのが目立つが、これは城の守護を祈念してそうしたとも言われている。
上の写真を見ると、石仏まで使われていたのが分かる。
今の日本にある大きな都市は、ほとんどが安土桃山時代から江戸時代初期にかけて城下町として整備されたものである。
そのため、城跡に天守を復元することが、町のシンボルの復活と捉えられる。そう思えば、日本は城下町の国とも言えそうだ。