矢筈城跡を登るにつれて、雨脚が早くなってきた。傘を差しながら登山を続けた。
台風で警報が出る中の登山など、我ながら正気の沙汰ではないなと思ったが、逆に言うと片手で傘を差しながら登れるほど登りやすい登山道が続くのである。
大岩を過ぎてしばらく行くと、平坦な削平地に至った。曲輪の跡である。
林間に靄が立ち込めて、神秘的な風景となっている。
矢筈城跡は、東西に約1600メートルに渡って曲輪が連続している。大きく分けると、西側の曲輪群と東側の曲輪群に二分される。
最も東に本丸があるが、ここは最も西の曲輪の成興寺丸であろう。
矢筈城跡を紹介した他の方のホームページを拝見すると、曲輪の名を書いた杭が写真に写っている。
私が訪れた時は、杭は無くなっているか、朽ちて字が判別できなくなっているかのどちらかだった。雨や雪がよく降る城跡なのだろう。
なので、このページで書いている曲輪の名前も、ひょっとしたら間違っているかも知れない。
最初の曲輪の先に、石塁なのか、自然の岩なのか、判別のつかない岩の塊がある。
その脇の道を抜けて行くと、櫓台があり、その裏に「狼煙場跡」と説明書きのある石で囲まれた場所がある。
櫓台に立って下を見ると、今まで歩いてきた曲輪を却下に見下ろすことが出来る。
この櫓台から落ちてくる弓矢を躱しながら進軍するのは容易ではなかろう。
その先には、更に石塁のようなものがあり、そこを過ぎると、小郭と説明書きされた曲輪がある。
これらの連続する曲輪群は、丁度馬の背のように連続している。曲輪の左右は急斜面で、左右から登って曲輪に到達するのは絶望的だ。この城を陥落させるには、成興寺丸から攻め入って、一つ一つの曲輪を突破していくしかない。
小郭の先には、石塁の段があり、石垣段という曲輪に至る。
石垣段の南北の斜面には、石垣が残っているようだが、訪れた時は気づかず、見損ねてしまった。また晴れた時に訪れたいものだ。
この先に、西側の曲輪群の中で最高所の曲輪がある。
そこから西側を見返ると、今まで歩いてきた、段々に連続する曲輪が見える。
更に曲輪の北側の斜面下には、削平地がある。かつて御殿があった跡らしい。
西側の曲輪群の先は、急な下りになる。先には、三重に掘られた堀切がある。この堀切で、敵の足を止めるつもりだったのだろう。
三重堀切のある斜面を下ると、かつて城門があった辺りに至る。
上の写真中央の岩の辺りが、かつて城門があった場所だ。
ここを過ぎると、東側の曲輪群に至る。最初の曲輪には、土塁が巡らされている。
ここを過ぎて、ようやく三の丸にやってきた。
その先には二の丸、本丸と続く。
本丸のある大筈の斜面から見下ろした二の丸は結構広い。
本丸の下には、防御用の腰郭がある。
腰郭を過ぎて、やっと本丸に辿り着いた。
津山藩士の正木輝雄が書いた「東作誌」には、矢筈城の本丸について、
東西十五間、南北六間、矢筈山の嶺に在り。古は四方へ掛作り有りと云う
と記されているという。
本当に山頂から建物がはみ出し、四方に掛作りをしていたのならば、圧巻の景観だったろう。
本丸東側の矢筈の崖は、本当の断崖で、ここから敵が攻めてくるのは不可能である。
この矢筈城跡は、城攻めの名手秀吉の軍勢の攻撃にも耐えた堅固な山城だ。登りやすい登山道が整備されていて、連続する曲輪を楽しめる。
興味がない人からすれば、建物や石垣が残っていない山城に登って何が楽しいのかと思うだろうが、土で築かれた防御機構を知れば、山城は登るたびにしみじみと好きになって来る。
残念ながら、私が矢筈城跡を訪れた当日は、雨と白い靄に覆われて、山頂からの眺めは堪能できなかった。
しかし、雨と白い靄の中の山城も、むしろいいものであると感じた。