一の鳥居から拝殿までは、一直線に参道が続いている。
貞観二年(860年)に奈良大安寺の僧・行教が、八幡大神の神託を受け、石清水八幡宮の分霊を奉じて淡路に来島し、社殿を建立したのが賀集八幡神社の発祥と言われている。
石清水八幡宮を模した壮麗な社殿が営まれ、中世には隆盛を極めた。
護国寺には、中世の賀集八幡神社と護国寺の伽藍古図が保管されている。
伽藍古図を見ると、最奥に八幡宮の本殿と丹生大明神の本殿が並び建っており、その手前に横に長い拝殿がある。
その手前にあるのは、護国寺の伽藍であろう。
暦応三年(1340年)に、阿波、讃岐を治める細川師氏が兵を率いて淡路に攻め込み、淡路国守宇原永真の軍を田中川の合戦で破った。
師氏は戦の前に賀集八幡神社の神前に鏑矢を奉納して、戦勝を祈願した。
戦ではその鏑矢が、敵将の宇原永真に命中し、勝利を収めることが出来た。
細川師氏は賀集八幡神社を祈願所とし、社殿を造営、神馬、太刀、神田を奉納した。
時代が下って寛永八年(1631年)に、徳島藩主蜂須賀忠英(ただてる)によって拝殿、本殿、摂社、末社が再建された。
瓦葺で中が吹き抜けとなった開放的な拝殿は、兵庫県指定文化財である。
拝殿の背後には、三間社流造、檜皮葺の本殿と、入母屋造、銅板葺の丹生神社が並び建っている。
本殿も寛文八年(1631年)の造営である。こちらも兵庫県指定文化財である。
正面と側面に縁を巡らしているが、両側面の縁が途中から一段高くなっている。神社建築の縁構えとしては、他に例を見ないという。
また、本殿の左側にある摂社丹生神社は、丹生都比売命を祭神にする神社であろう。
丹生神社の祭神丹生都比売命は、水を司る神様である。八幡大神と並んで祀られていることにも、何らかの由緒があるのだろう。
日本各地の八幡神社は、古くから武家に崇敬されてきた。また厄除けの神様として祀られている例も多い。
今では誉田別(ほむだわけ)命こと第15代応神天皇が、八幡神社の祭神とされているが、全国の八幡神社の総本宮である豊後の宇佐神宮の背後に聳える御許(おもと)山に降臨した神霊が、大元の神様であろう。
日本の神々は、記紀の中で名前が付けられているが、元々は山に降臨した名のない神霊たちだったのではないかと思われる。