伝説では、有馬温泉を発見したのは、国造りの神様の大貴己(おおなむち)命と少彦名(すくなひこな)命の二神とされている。
二神が薬草を探して全国を旅をしていると、有馬の地で三羽のカラスが、赤い湯に傷を浸して治療しているのを見た。
以後、有馬温泉は湯治場として知られるようになった。これが、伝説上の有馬温泉の始まりである。
以降、第34代舒明天皇や第36代孝徳天皇が有馬温泉に行幸したという記事が、「日本書紀」に見える。
神亀元年(724年)に、行基が有馬を訪れて、温泉寺を開き、有馬温泉を整備した。
温泉寺の北側に、有馬の三羽烏と行基の像が建っている。有馬温泉の始まりを表すモニュメントである。
鎌倉時代には、仁西という僧が、12の宿坊を建てて、温泉地として発展させた。
有馬温泉を発見した大貴己命と少彦名命を祭神とするのが、温泉寺と隣接する湯泉(とうせん)神社である。
湯泉神社は、かつては温泉寺の境内にあったが、明治16年に現在地に移された。
湯泉神社の参道は、温泉寺の境内から始まっている。
温泉寺境内南側にある鳥居を潜ると、湯泉神社への石段が始まる。
参道脇には、丈高い杉が林立している。朝の冷たい空気の中、こんな参道を歩くのは気持ちがいい。
参道の途中に妙見堂がある。妙見大菩薩を祀るお堂である。
妙見堂が温泉寺と湯泉神社のどちらに所属する建物なのかは分からない。
過去には温泉寺と湯泉神社は、一体だったから、この問いにあまり意味はないのかも知れない。
妙見堂を過ぎて石段を上がって行くと、湯泉神社の境内に至る。
湯泉神社は、当初大貴己命と少彦名命の二神を祭神としていたが、鎌倉時代の熊野信仰の高まりと共に、熊野久須美(くすみ)命も祭神に加えられた。
そのため、当社には、鎌倉時代後期の作である「絹本著色熊野曼荼羅」が伝えられている。国指定重要文化財である。
また、有馬温泉には、250年前から続く入初(いりぞめ)式という伝統行事がある。
毎年正月二日に、有馬温泉を発見した大貴己命と少彦名命の二神と、温泉を再興した行基と仁西に感謝を捧げる行事である。
湯泉神社の御神体と、温泉寺の行基像、仁西像を輿に乗せ、神職、僧侶、旅館の主人、芸妓が扮した湯女(ゆな)が、輿の周囲に古式ゆかしい練行列を組んで式場に向かう。
式場では、湯女が泉源からくみ上げた初湯を湯もみし、適温になると旅館関係者が初湯を行基像、仁西像にかけるという。
有馬温泉の湯治場としての歴史は、神話の時代から現代まで、絶えることなく続いている。温泉街の人々も、そんな街の歴史を大事にしている。
考えてみれば、日本の歴史も似たようなものである。日本人が、先人の営みに思いを馳せ、そこから繋がっている今の生活をありがたく大切に思うこと。この積み重ねこそが、歴史というものだろう。