吉備の中山の西側の、岡山市北区川入の集落の奥に、吉備津神社摂社の旧新宮社跡がある。
新宮社は、吉備津神社祭神大吉備津彦大神の子神である吉備武彦命を祀る社である。
新宮社は、現在は吉備津神社境内にある本宮社に合祀されているが、昔は川入の集落に祀られていた。
川入の集落の西端に旧新宮社の鳥居が残っていて、その脇に「吉備津新宮社」と刻まれた標柱が残っている。
明治時代末まで新宮社はここに祀られていたという。
この鳥居から真っ直ぐ東に参道が続いている。参道の突き当りに小さな祠がある。
この祠から右に行くと旧新宮社跡があり、左に行くと東林山真如院がある。
まず道を右に取った。しばらく行くと石段があり、その上に石垣がある。
この石垣上が、旧新宮社跡である。社殿は残っていないが、社殿が建っていた跡と思われる壇があり、その上に「吉備武彦命鎮座跡地」と刻まれた石碑が建っている。
既に社殿はないが、まだ神様がここに居られるのではないかという神気を感じた。
旧新宮社跡の横には、祭神は分らぬが、祠があった。拝殿と本殿がある。新宮社が本宮社に合祀された後も、この社殿だけは残されたようだ。
この祠の奥に巨石がある。影向(ようごう)石と彫られている。
今は注連縄も紙垂もないが、古来から神の依り代として崇められた石だろう。
旧新宮社跡に来て神気を感じたのは、この石があったからだろうか。
さて、旧新宮社跡の西側には、天台宗の寺院である東林山真如院がある。
この寺は、享保年間(1716~1736年)の吉備津神社の神仏分離まで、旧新宮社を管理していた寺である。
神仏習合の時代には、別当寺と呼ばれた寺院が神社を管理していた。神様は仏の権現とされ、神殿で祭神に向けて僧侶により経が唱えられた。
かつては、吉備津神社の回廊が、旧新宮社跡や真如院まで延びていたらしい。
また真如院は、鯉山(吉備中山)講という修験者達の修行の地でもあったようだ。
仁王門の前には役行者の像があり、寺の東側に「南無金剛蔵王大権現」と刻まれた、鯉山講の由来を書いた石碑がある。
仁王門と仁王像は、慶長十二年(1607年)に建てられた。明治25年に仁王門が老朽化のため取り壊され、仁王像は一時本堂に安置されたが、昭和48年に仁王門が再建され、仁王像は元の位置に戻された。
真如院の本尊は、岡山県重要文化財である阿弥陀如来立像である。
像高65センチメートルの檜の寄木造りで、宝治二年(1248年)に仏師広慶によって刻まれた。
衣文の美しい御像である。実に神々しい。
この仏像の頭部から墨書銘が見つかり、地元の豪族の賀陽(かや)氏が仏像制作に関わっていたことが分かった。
賀陽氏は、古代から続く地元の豪族で、代々吉備津神社の神官を勤めた家である。また日本臨済宗の開祖栄西を輩出した家である。
川尻の集落の西側の田んぼの中に、鬱蒼と木々が茂った場所がある。
地元の人は、昔からこの場所を賀陽氏の居館の跡と伝えてきた。岡山県指定史跡の伝賀陽氏館跡である。
かつては正方形に近い敷地が土塀で囲まれ、その周りを濠が囲んでいたようだ。
今では、濠の跡に茅が生えて、ただ鬱蒼とした叢と林のように見えるだけだ。
よく見ると、伝賀陽氏館跡の中に民家が一軒建っている。この家が賀陽氏とゆかりがあるのかは分からない。無人の家のように見える。
吉備津神社の周辺には、古代から続く氏族の中世の居館跡や、神仏習合時代の信仰の痕跡が残る。
古代や中世の僅かな跡も、根気よく史跡巡りを続ければ見つけることが出来る。