善福寺の参拝を終え、神戸市北区有馬町の温泉街を散策する。
温泉街に入ると、平成13年にオープンした金の湯がある。外湯もある公衆浴場である。
金の湯の入口の前には、日本第一神霊泉と刻まれた碑が建っている。
また、金の湯店頭には、秀吉の馬印である瓢箪を模した温泉水の吐出口がある。
有馬の町中を散策すると、溝から湯気が立っているのが目につく。
この町を訪れるならやはり冬がいい。冬の朝の柔らかい日差しの中、温かい湯気が町のあちこちから立つのを見るのはいいものだ。
金の湯から東に行くと、昔ながらの温泉街の細い路地がある。
温泉街を歩くと、古い日本の風情が味わえる。
さて、金の湯から南に歩くと、黄檗宗の寺院、有馬山温泉寺の石段が見えてくる。
石段を登ると、堂々とした佇まいの本堂が見えてくる。
温泉寺は、神亀元年(724年)に行基がこの地を訪れ、有馬温泉を開いた時に、自ら薬師如来像を彫って安置したのが始まりである。
寺には、行基の像と共に、鎌倉時代に有馬温泉を復興させた仁西の像も祀られている。
本堂の前には、二基の大きな石造五輪塔が建っている。
左塔は平清盛の供養塔、右塔は慈心房尊恵の供養塔とされている。鎌倉時代中期から後期の作で、神戸市指定有形文化財である。
尊恵は、今の宝塚市にある清荒神清澄寺の僧侶で、「法華経」の熱心な信者であった。
伝説によると尊恵は、生前閻魔庁に四度招かれて、閻魔大王と語らったという。
承安二年(1172年)に閻魔大王の法華経会に招かれた尊恵は、大王から、「平清盛は普通の人ではない。慈恵僧正(中国天台宗の中興の祖)の生まれ変わりだ。毎日三度偈を唱えて称賛している」と言われた。
蘇生した尊恵は、清盛にこのことを伝えた。清盛は大いに喜んだという。
当時清盛は、大輪田泊の修復に際し、「法華経」の持経者千人を集め、千僧供養を行ったりしていた。
尊恵が安元元年(1175年)に閻魔庁を訪れた時には、大王から「法華経」の入った経箱を、日本無双の勝地で閻魔王宮の東門に当たる有馬温泉山の如法堂に納めることを勧められ、実際に納めたという。
温泉寺の本尊は薬師如来像だが、薬師如来の守護神である十二神将の像も祀られている。その中の木造波夷羅(はいら)大将立像は、国指定重要文化財になっている。
室町時代の作で、鋭い刀法で写実的に刻まれた彫刻である。
平安時代後期の作である木造毘沙門天立像は、神戸市指定有形文化財である。
温泉寺は、天正四年(1576年)に火災で全焼したが、秀吉の正室北政所(ねね)によって再建された。
温泉寺は元は真言宗の寺院だったが、元禄年間(1688~1704年)に黄檗宗の寺院になった。その後再度火災で堂宇が焼失した。
天明年間(1781~1789年)に現在の本堂が再建された。
温泉寺の歴史は、有馬温泉の歴史と共にある。怪我や病気を治すために有馬温泉を訪れた人々は、必ずこの温泉寺の薬師如来も拝んだことだろう。
町と共に歩んできた寺は、町がある限り滅びることはない。