極楽寺 太閤の湯殿館

 温泉寺の東隣に、浄土宗の寺院、極楽寺がある。

極楽寺

 極楽寺の創建は古く、推古天皇二年(594年)に聖徳太子により建てられたと伝わっている。

 それが本当なら、恐らく有馬で最古の寺院になると思われるが、これはあくまで伝説の領域の話だろう。

 極楽寺は、元はここより東にある石倉の地に建っていた。建久二年(1191年)の有馬温泉の再興を機に、現在地に移転したという。

 ご本尊は、厭救(おんぐ)上人作の阿弥陀如来像である。

阿弥陀如来坐像

 金色に輝く御像である。

 平成7年の阪神淡路大震災により、極楽寺の庫裏が倒壊した。庫裏の再建工事のため土地を掘ると、安土桃山時代の遺構が見つかった。

 この遺構は、太閤秀吉が有馬温泉に築いた湯山御殿の跡であることが分かり、平成9年には神戸市指定史跡になった。

 平成11年に、湯山御殿の跡に、発掘された遺物を展示するための資料館として、太閤の湯殿館がオープンした。

太閤の湯殿館

 太閤の湯殿館の前には、湯山御殿の庭園が再現されている。発掘された庭園は、埋め戻されているが、その上に再現されたものである。

発掘された湯山御殿の庭園

再現された湯山御殿の庭園

 太閤の湯殿館に入ると、湯山御殿の遺跡から発掘されたものや、有馬温泉の歴史に関する資料、特産物などが展示されている。

太閤の湯殿館の内部

 実際に地下から発掘された岩風呂や蒸し風呂の遺構が、そのまま展示されている。

発掘された岩風呂

岩風呂の遺構

 発掘された岩風呂の遺構は、石組みに囲まれた浴槽である。天然の岩盤の亀裂を利用して、浴槽に湯が流れ込むようになっていた。浴槽の底には、湯垢の酸化鉄が沈殿していたそうだ。

 蒸し風呂の遺構の上には、蒸し風呂の建屋が再現されている。

蒸し風呂の建屋

蒸し風呂の遺構

 ところで、風呂に入る時に湯に浸かるようになるのは、江戸時代以降のことで、それまでは風呂と言えば蒸し風呂であったそうだ。今でいうサウナである。

 蒸し風呂では、発汗作用を高めるため、内部に菖蒲を敷いたり、生木や常緑樹の葉を焚きものとして使ったりした。

 多くの汗をかいた後、かけ湯をして汗を流したそうだ。

秀吉が愛用した入浴道具

 太閤秀吉も、この岩風呂や蒸し風呂に入っていたことだろう。

 湯山御殿跡からは、安土桃山時代の瓦や陶磁器類が見つかっている。湯山御殿で使われていたものだろう。

湯山御殿の鬼瓦

発掘された陶磁器類

赤志野の筒茶碗

 唐津備前丹波、志野などの日本各地の陶器だけでなく、中国景徳鎮の磁器なども見つかっている。高級品ぞろいである。

 秀吉一行は、湯治をしながら茶の湯も楽しんだことだろう。

 また、天正十一年(1583年)に、有馬温泉に湯治に来る本願寺光佐をもてなすよう、秀吉が湯山惣中に出した書簡の複製も展示されていた。

湯山惣中に秀吉が出した書簡の複製

 舒明天皇の昔から、有馬温泉は有力者が湯治する場所であった。

 秀吉の死後、徳川の世になると、湯山御殿は破却された。

 家康は、秀吉の権力を示す建造物を徹底して破壊したが、湯山御殿もその一つであった。

 破却された湯山御殿の上には、浄土宗の寺院である極楽寺や念仏寺の建物が建てられた。

 秀吉の時代を示すものとして、今でも地上に残っているのは、極楽寺の南側にある石垣とその上の帯曲輪である。

石垣

帯曲輪

 また、極楽寺の前には、豊太閤之塔と呼ばれている石造五輪塔がある。

豊太閤之塔

 秀吉を偲ぶため、いつの頃にか建てられた塔であるらしい。

 権力者が交代すると、過去の権力者の遺産は清算されることが多い。これは、現代の民主主義の世界でも、政権交代後に起こり得ることである。

 それにしても家康による秀吉の遺産に対する徹底した破壊ぶりは、憎悪すら感じさせる。

 天下を握るには、非情さが必要だったということか。