学行院 源門寺廃寺跡

 鳥取市国府町新井の集落から東に行くと、松尾の集落がある。

 この集落の奥に、モダンな鉄筋コンクリート造の白い建物がある。国指定重要文化財の木造薬師如来坐像と両脇侍坐像や木造吉祥天立像を収蔵する学行院である。

学行院

 今の学行院は、僧侶が常駐する寺院ではなさそうだ。

 ここに安置されている仏像の由来は謎に包まれている。

 寺伝によれば、和銅年間(708~715年)にこの地に花慶山光良寺という七堂伽藍を備えた寺院があったという。

 この寺の本尊が、今に伝わる薬師如来坐像で、行基菩薩の作であるという。

 実際の仏像は、行基の時代ではなく、平安時代末期に制作されたもので、両脇侍坐像は、日光菩薩像と月光菩薩像である。

 三体の仏像が、八角形の台座に支えられた蓮華の花びらに乗るが、この蓮華の彫刻は山陰随一の美しさであるという。

木造薬師如来坐像及び両脇侍坐像(向かって右が日光菩薩、左が月光菩薩

木造吉祥天立像

 吉祥天立像も、平安時代末期の作で、所々に金箔や明るい緑色の彩色が残る。

 唐の女人像を思わせる、大陸風の大らかな御像である。

 中世に光良寺は衰退し、長らく仏像も野ざらしになっていたようだが、慶長九年(1604年)にこの地を訪れた修験行者の覚行がお堂を作って仏像を安置したという。

 学行院の名は、この覚行から来ているらしい。

 元禄七年(1694年)には、薬師堂が建てられ、仏像はそこに祀られた。

 昭和30年に、古くなっていた薬師堂に代わって、今のモダンな収蔵庫が建てられた。

 仏像を守っていくという地域の熱意が感じられる。

宝篋印塔の残欠

供養塔

 収蔵庫の前には、古い宝篋印塔や供養塔の残欠が残されている。因幡には、このような石造物が数多く残されている。

 さて、学行院のある松尾の集落の隣にある中河原の集落に行く。

 中河原集落の東端の、地元で寺屋敷と呼ばれている空き地に、三界万霊塔が建っている。この場所は、かつて霊峰山源門寺(げんもじ)という寺院が建っていた場所だという。

源門寺廃寺跡

三界万霊塔

 三界とは、仏教の欲界(欲望の世界)、色界(物質の世界)、無色界(非物質の世界)を指す。

 三界万霊塔は、三界を生々流転する万物の霊を供養するための塔である。

 塔には、「文政十三年(1830年)寅五月当寺十世瀧本院了宥代 願主真先裕哲」と刻まれている。

 当寺十世ということは、一世を30年と数えれば、源門寺は文政十三年から約300年前に開山したことになる。戦国時代の1530年ころに開山したことになるだろう。

 寺屋敷から西に行くと、寺屋敷から移されたという妙見堂がある。

妙見堂

 妙見堂には、妙見菩薩が祀られている。地域の会合にも使われている建物らしい。

 妙見堂の前には、寺屋敷から移された礎石や石塔が置かれている。

源門寺の礎石

石塔

 妙見堂前の礎石は、塔心礎だろう。源門寺には、三重塔が建っていたのだろうか。

 また、石塔の下に置かれた石も、元は源門寺の礎石だったのだろう。

 地域に古くから伝わる地名や、昔からそこに何気なく横たわる石に、その地域の古い歴史が籠っていることがある。

 考えてみれば、私たちが何気なく見過ごしている路傍の石も、私たちよりも遥かに古く、数百万年の時を閲しているかも知れない。

 私たちの周りに、歴史の証人は転がっているのだ。