土師百井廃寺跡は、鳥取市から八頭町に跨って聳える霊石山の東南側山麓にある。
霊石山南側の山中には、古墳時代後期の古墳群である米岡古墳群が広がる。
丁度鳥取市と八頭町の境界線付近にあるのが、古墳群の中でも最も大きな米岡2号墳である。
ネットで事前に調べたが、米岡2号墳は、地元のガイドでもいないと到達できないような分かりにくい場所にあるという。
しかし今回私は、幸運にもネット上の僅かな情報を頼りに、米岡2号墳に辿り着くことが出来た。
今回は、今後どなたでも米岡2号墳に行けるよう、ガイド文を書こうと思う。
鳥取県八頭郡八頭町米岡の私都(きさいち)川にかかる米岡小橋という橋を北に渡った先に、山麓に建つ民家があり、その民家の脇に山中に入っていく道がある。
民家の脇の道を真っすぐ歩いていくと、途中で道が左に大きくカーブする。
このカーブを越えて、更に道なりに歩いていく。
すると左手に小屋が見えてくる。その先で道は行き止まりになる。私が訪れた時は、行き止まりにブルーシートが被せられた資材があった。
この小屋の左側は、沢に下りる斜面になっている。結論を先に書くと、この小屋から左(西)方面に真っすぐ歩き、2つの沢と2つの尾根を越えると、その先に米岡2号墳が見えてくる。
小屋から左(西)に入り、斜面を下りて一つ目の沢を越える。
一つ目の沢を越えた西には尾根があるが、尾根上に小さな円墳が点在している。中には石室が露出しているものもある。
古墳が点在する一つ目の尾根を越える。もちろん道はない。道なき山中に入っていく。
この日の午前中に鷹山城跡の急傾斜を上り下りしたおかげで、この程度の道のない尾根を上り下りするのは、お庭の散歩のように気楽に感じる。人間の体は、環境に順応するように出来ているものだ。
さて一つ目の尾根を越えると、次に二つ目の沢がある。
二つ目の沢は、ほとんど水が流れていない沢であった。この沢を越えると、二つ目の尾根がある。
二つ目の尾根上にも、石室が露出した古墳が散在する。
さて、二つ目の尾根を越えて更に西に歩くと、右前方に大きな石の固まりが見えてくる。これが米岡2号墳である。
米岡2号墳は、直径約10メートルほどの円墳だが、風化して石室が露出している。
米岡2号墳の石室は、南側に向いている。石室の大きさは、人一人がようやく入れる
程度のものである。
この米岡2号墳の石室内には、線刻画が描かれているとのことだったが、懐中電灯もなかったので、確認することが出来なかった。
この米岡2号墳に埋葬された人物は、どんな人物だったのだろう。私都川沿いにあった集落の長だったのではないか。
大化二年(646年)の孝徳天皇の薄葬令により、古墳の造営は禁止され、その代わり各地に寺院が建立されだした。
地元豪族は、古墳造営をやめて、寺院を建立するようになった。
米岡古墳群と土師百井廃寺跡が隣り合うこの地域も、古墳から寺院へという遷移を実感出来る場所である。
私の地元にも、小さな古墳が散在する山がある。古代の日本人の精神世界では、山は死者の霊が帰る場所であった。そのため、山中に数々の古墳が築かれたのだろう。
天皇や皇族が葬られた古墳は、平地に築かれていることが多いが、地方の豪族などは、山中に葬られることが多かった。
古代の日本人にとって、山は最後に帰る場所と認識されていたようだ。