梶山古墳

 岡益の石堂から県道を挟んで南東側にある丘陵上に、7世紀前半に築造された梶山古墳がある。

梶山古墳

 梶山古墳は、変形八角形の古墳である。墳丘の周囲を外護列石が石垣状に囲んでいて、その前方に祭祀に使われたと見られる方形壇がある。方形壇も、玄武岩を積み重ねた石垣で周囲を固められている。

梶山古墳の見取図

 梶山古墳は、大正時代から切石造りの石室があることで知られていたが、昭和53年の発掘調査で、石室内に彩色壁画があることが分かった。

 奈良県高松塚古墳に匹敵する装飾古墳として脚光を浴びることとなった。

 古墳保存修理のため、平成3年から同7年までの間、試掘調査を行ったところ、それまで円墳と思われた古墳が石垣で囲われた変形八角墳であることが分かり、古墳の前方に、三段の石垣で築盛された方形壇があったことが分かった。

発掘調査中の梶山古墳

 二段目の石垣は、版築互層状の土層を支えるために地中に埋められていたが、復元工事では外側に見えるように復元された。

築造時の石垣の断面図

復元された三段の石垣

 現在復元されている方形壇の三段の石垣は、実物の石垣の外側に復元されたものである。

 本物の石垣は、復元された石垣の背後の土中に埋められて保存されている。

本物の石垣と外側に復元された石垣

祭祀が行われた方形壇

 ところで、梶山古墳は何故変形八角墳として築造されたのだろう。

 「古事記」などを読むと、古代の日本では8という数字が聖数視されていたのが分かる。8を聖数と見るのは、道教の影響とされている。

 キトラ古墳の壁画に描かれた世界も、明らかに道教の世界観を表している。

 梶山古墳も、道教思想の影響下に築かれたのだろうか。

梶山古墳の墳丘正面

墳丘背面

墳丘側面

 梶山古墳は、最大径約17メートルで、石室入口から玄室の奥壁までは約10メートルである。
 梶山古墳石室は、羨道、前室、玄室までが完全に残されていて、平らに切って加工した切石積みの石室である。石室内は、普段は非公開である。

石室入口

石室断面図

 玄室は、被埋葬者が埋葬された場所であるが、玄室の奥壁に体長53センチメートル、幅22センチメートルの魚と、曲線文、同心円文、三角文の彩色壁画が残されている。

彩色壁画模式図

 魚は、中国の伝説上の巨大魚、鯤(こん)を描いたものという説もある。日本神話の内容や、古墳時代の遺物には、道教や中国神話の影響を思わせるものが残っている。

 日本文化に影響を与えたものとして、儒教、仏教は知られているが、道教の影響はあまり着目されてこなかった。

 古代日本に儒仏道の思想を齎したのは、渡来人だった。

 梶山古墳の近くの岡益の石堂も、大陸文化の影響を感じる遺物である。古代因幡には、大陸から渡来した人々による文化が根付いていたのだろう。

 日本は、古代に輸入した儒教、仏教、道教だけでなく、奈良時代には統治制度として唐の律令制度を採り入れ、江戸時代には支配イデオロギーとして宋で成立した朱子学を採り入れ、明治時代にはドイツ帝国憲法の影響を受けた帝国憲法を成立させ、戦後はフランス革命アメリカ独立戦争の理念である人権思想を基に作られた日本国憲法を採用するなど、常に外国の思想や理念を基に国を作ってきた。言い換えると、服を着替えるように時代と共に外国から借りた統治制度を脱ぎ替えてきた。

 それら外国の影響を除いて残る日本独自のものは、天皇神道と和歌から始まる日本文学になる。

 天皇という言葉自体、道教の影響が感じられる。やはり大王(おおきみ)という天皇以前の古代の呼称の方が日本らしい。

 こうして見ると、日本が外国から取り入れた制度と日本独自の文化は、外出着と普段着の関係のようで面白い。