六部山3号墳の北西には、同時代の前方後円墳である古郡家(ここおげ)1号墳がある。地名で言うと、鳥取市古郡家になる。
古郡家1号墳は、全長約92.5メートルの因幡最大の前方後円墳である。
後円部に3基の埋葬施設があり、それぞれから副葬品が発掘された。
2号棺には、全身を朱色に塗られた成人男性が土師器の壺を枕にして埋葬されていたらしい。
副葬品からして、4世紀後半の築造と見られている。六部山3号墳と同時期の古墳である。
説明板には、昭和31年に撮影された古郡家1号墳の写真が掲載されていた。当時は今ほど古墳周辺に木々が生えていなくて、墳形が分るほどだったようだ。
今では古墳が鬱蒼とした木々に覆われて墳形を認識できない。
古墳の西側の細い道を歩いて、後円部の方向を見たが、古墳の形は見えない。
この古墳からは、八ツ手葉形の異形の銅鏡が見つかっており、大和、丹後地方との繋がりが見て取れるという。
藪を突破して古墳を探すのは困難と思ったので諦めた。
古郡家1号墳の北側には、古郡家の集落があるが、その中に曹洞宗の寺院、三徳山森福寺がある。
本堂は新しいが、華頭窓があって禅寺らしい佇まいだ。
森福寺には、鳥取県指定保護文化財の木造薬師如来坐像がある。ヒノキ材で作られ、像高は約80.4センチメートルである。
薬師如来は、正式には薬師瑠璃光如来と呼ばれている。医王仏とも呼ばれ、病気の人々を救う仏さまとして古来から信仰されてきた。
寺伝によれば、この薬師如来坐像は、過去にはここから西に約1キロメートル離れた八坂山寺谷に安置されていたという。
左手に薬壺を持ち、右手には施無畏印をしている。
螺髪や衣文の特徴から、この像は平安時代後期の制作であると言われている。
木造薬師如来坐像は非公開であった。
さて、森福寺から西に行き、かつて薬師如来坐像が安置されていたという八坂山麓にある橋本38号墳を訪れようと思った。
橋本38号墳の石室跡には、「橋本の石棺」と呼ばれる家形石棺が露出しているらしい。石室の床が砂岩のタイル状切石で作られているそうだ。
行って見たかったが、古墳へ行くには塀で囲まれた民家の敷地を通らなければならなかった。勝手に通るわけにもいかず、見学は諦めた。
史跡巡りを3年半続けてきて悟ったのは、史跡巡りの要諦は、無理をしないということである。
これが息長く史跡巡りを続けるこつであると思われる。
私は体が持つ限り、史跡巡りは続けていきたいと考えている。そのためには、この要諦を肝に銘じておこうと思う。