豊岡市 正福寺

 小田井縣神社の参拝を終え、円山川右岸の豊岡市日撫(ひなど)にある曹洞宗の寺院、正福寺を訪れた。

 ここは、大石内蔵助良雄の妻・りくの遺髪塚と、長女・くうの墓、次男・吉之進の供養塔のある寺である。

大石りく、くう、吉之進の銅像

 寺は低い山の中腹にある。寺に至る坂道の下に駐車場があり、そこに大石りく、くう、吉之進の銅像が建っている。

 りくは、寛文九年(1669年)に豊岡藩家老石束毎公(つねとも)の長女として豊岡の地で出生した。

 貞享四年(1687年)、18歳で赤穂藩家老大石内蔵助良雄に嫁した。元禄元年(1688年)に長男主税、元禄三年(1690年)に長女くう、元禄四年(1691年)に次男吉之進、元禄十二年(1699年)に次女るりを生んだ。

正福寺本堂

 元禄十四年(1701年)三月十四日、江戸城松の廊下で、赤穂藩浅野内匠頭吉良上野介を刀で切りつける刃傷事件が起こった。

 殿中での刃傷沙汰に将軍綱吉は激怒し、浅野内匠頭は即日切腹を命じられ、赤穂藩は取り潰されることになった。事情は分からぬが、吉良上野介へのお咎めはなかった。

 同年五月、赤穂城は明け渡されることになり、大石内蔵助一家は今の赤穂市尾崎に移り、内蔵助はそこで残務処理に当たることになった。

本堂前にある、大石りくを小説に書いた平岩弓枝の石碑

 夫が残務処理に当たる間、りくは四人の子供と一旦豊岡の実家に帰った。

 同年七月、内蔵助が京都山科に居を移すと、りくと子供たちも山科の内蔵助の下に移った。

 内蔵助と赤穂浪士は、当初は浅野家の再興に望みを託していたが、それが不可能と分かると、主君の仇である吉良上野介を討つことに焦点を絞っていくようになった。

俳人京極杞陽の句碑(ここも亦 元禄美挙の 花の趾)

 りくは、山科で三男大三郎を身ごもる。

 元禄十五年(1702年)四月、仇討の挙に加わるため父の下に残ることになった長男主税を置いて、りくと他の子供らは豊岡に戻った。

 同年七月、豊岡でりくは三男大三郎を出産する。

 同年十月、内蔵助とりくは離縁する。吉良上野介への討ち入りの挙で妻子が罪せられないようにするための離縁であった。

 内蔵助と主税は、これで後顧の憂いなく討ち入りに邁進できるようになった。

大石りく遺髪塚への案内

 元禄十五年(1702年)十二月十四日、大石内蔵助が指揮する赤穂義士四十七人は、江戸の吉良上野介邸に討ち入り、主君の仇上野介を討ち取る。上野介の首級を主君の墓前に捧げた後、四十七士は縛につき、翌年二月四日に切腹した。

 豊岡で夫と長男の切腹を知ったりくは、次男吉之進を僧籍に入れ、三男大三郎を養子に出した。

大石りく遺髪塚等

左から大石くうの墓、りくの遺髪塚、吉之進の供養碑

 宝永元年(1704年)九月二十九日、長女くうは15歳の若さで死去し、石束家ゆかりの正福寺に葬られた。

大石くうの墓

くうの墓の裏側の「宝永元申年九月廿九日 大石内蔵助女 俗名空」の銘

 宝永六年(1709年)三月一日、豊岡興国寺の僧侶となっていた吉之進が19歳で死去した。吉之進は興国寺に葬られた。吉之進の墓については先日の記事で紹介した。

 正福寺には、後世になって吉之進の供養塔が建てられた。

吉之進の供養塔

 りくは夫の死後、落飾して香林院と号し、正福寺で夫と長男、赤穂義士の冥福を祈った。

 吉之進が亡くなった宝永六年(1709年)、徳川家宣が6代将軍になり、赤穂義士の遺児に恩赦が行われることになった。

 浅野家の本家である広島藩浅野家が、三男大三郎を家臣として召し抱えることになり、正徳三年(1713年)、りく、るり、大三郎は広島に移った。

大石りくの遺髪塚

 元文元年(1736年)十一月十九日、りくは広島の地で68歳で死去した。広島の国泰寺に葬られた。

 昭和20年8月6日の米軍による広島への原爆投下により、国泰寺とりくの墓は全壊全焼した。

 戦後国泰寺は場所を移して復興したが、今のりくの墓には遺骨は納められていない。

 りくは、生前正福寺の長女くうの墓所に自分の遺髪塚を築くことを望んでいたという。広島に移ってからも、豊岡に眠るくうと吉之進のことを気にかけていたのだろう。

 大石りくは、良妻賢母の鑑のように言われる人物である。

 主家を取り潰された後、主君の仇を討つために苦心した夫を影ながら支えた武士の妻として、また残された子供たちを気丈に育てた母として、後世の日本人に尊敬されている。

 私は、この世界には美しいものが多くあると思っているが、その中でも最も美しいのは、「気丈な母」であると思う。

 男の意地の世界に邁進することになった夫と長男から離れ、夫と死別した後も、残された子を育てたりくは、尊敬すべき気丈な母であると思う。