鳥取城跡 その3

 中仕切門を潜ると、二ノ丸跡方面に向かう石段が続いている。

二ノ丸跡に向かう石段

 石段を登って南に歩いていくと、先ほど仁風閣前から眺めた三階櫓の石垣の下に出る。

三階櫓の石垣

 この石垣の手前に、東側つまり久松山側に向かう石段がある。

右膳ノ丸跡に向かう石段

 この石段を登って突き当りを左に行くと、右膳ノ丸跡に至る。

右膳ノ丸跡

 右膳ノ丸跡の東側には、そそり立つような二ノ丸跡の石垣があるが、その手前に城中なのに墓があった。

澤市場屋の墓

 この墓は、澤市場屋という、鳥取城築城前からこの地に住んで墓を営んでいた町人の墓である。

 元々は、三ノ丸の築かれたあたりの山麓に墓があったという伝承がある。

 鳥取藩は、鳥取城築城前からここに墓のあった澤市場屋に一目置き、築城後も澤市場屋の城内への墓参りを許可したという。

 右膳ノ丸跡の北側の石段を登って二ノ丸跡に向かった。

二ノ丸跡に向かう石段

 二ノ丸跡の北端には、登石垣という階段状の石垣がある。

登石垣

 この登石垣の先には久松山がある。

 昔は、山上ノ丸に行くために、この登石垣の石段が利用されていたのだろう。

 登石段を過ぎると、二ノ丸跡の曲輪が広がっている。

二ノ丸跡

 二ノ丸跡は非常に広大であり、ここが鳥取城の実質上の中心であったことが分かる。

 二ノ丸跡の東側の久松山側には、鳥取城の石切場跡がある。

石切場

矢穴

 鳥取城の石垣の石は、久松山から切り出されたものである。

 山麓の岩石を削って石垣用石材を作りながら、削られた場所を曲輪にしていったようだ。

 岩肌には、長方形の矢穴が開いている。鉄製の「矢」と呼ばれるクサビを石に打ち込んでいき、石を割って石材を切り出した。

 昭和の石垣の修復では、久松山の保護のため、久松山以外の場所から切り出した石材を利用したそうだ。

 二ノ丸跡の中心には、三階櫓が建っていた石垣がある。

三階櫓が建っていた石垣

 三階櫓は、元和三年(1617年)に池田光政が入城してから間もなくして建築された。  

 元禄五年(1692年)の山上ノ丸の天守焼失以降、鳥取城の天守の代わりとして、城の象徴なった建物である。

 享保五年(1720年)の石黒火事で焼失したが、元文元年(1736年)に再建された。

 その時には、藩内の複数の神社の御神木から木材が特別に提供された。

三階櫓が建っていた石垣の上

 鳥取藩を象徴する建物として、藩が気合を入れて再建したのだろう。

 三階櫓は、明治12年に解体撤去されるまで、その威容を誇った。

 令和18年までに再建される3代目の三階櫓は、鳥取県を代表する建物となることだろう。

 三階櫓石垣の側に、昭和40年の石垣修復工事の際に見つかった、三階櫓石垣天端角石が置いてあった。

三階櫓石垣天端角石

 この石は、三階櫓石垣の北東角の角石であった。

 享保十三年(1728年)に三階櫓とその石垣を修復した際の大工の名前が刻まれている。

二ノ丸跡

 今の二ノ丸跡には、芝生が植えられ、桜が植えられている。

 桜の季節には、花見客が数多く訪れることだろう。

 かつての鳥取藩の歴史を現在に伝える城跡が、今は市民の憩いの場所となっている。

 時の経過というものは、どんな強大な権力でも飲み込んでしまうものだ。