意上奴神社の参拝を終えて、近くにあるという空山15、16号墳を見学しようと空山の遊歩道を歩いたが、古墳を見つけることが出来なかった。
空山の斜面は、梨の畑に覆われ、梨に近づく鳥獣を威嚇するための警報音があちこちで鳴り響いていた。そういえば、鳥取は梨で有名であることを思い出した。
約1時間古墳を探したが、ついに見つからなかった。空山15、16号墳は、次回の因幡の史跡巡りで紹介することになる。
空山を一旦離れ、鳥取市広岡にある坊ヶ塚古墳を訪れた。この古墳は鳥取県指定史跡である。
坊ヶ塚古墳は、古墳時代後半の6世紀ころに築かれた古墳である。直径約13メートルの円墳である。
この古墳の石室には、石に刻んで描かれた線刻画が残っている。
よく見ると、石室入口や、石室奥に描かれた線刻画を確認することが出来る。
残念なのは、写真で線刻画を伝えるのが困難なことである。
特に石室の奥に入ると、石室内が暗いためにフラッシュを焚かざるを得ないが、フラッシュを焚くと、陰影が消えてしまって、線刻画の全貌が分りにくくなる。
かといってフラッシュを焚かないと、そもそも写真が暗くて分からなくなる。いまさらながら肉眼の光量調整能力の高さに感心する。
石室入口手前右側に線刻画が描かれていたが、抽象画のようで何を描いているか分からなかった。
さて、身を屈めて石室に入ろうとすると、天井に蝙蝠がぶら下がっているのが見えた。蝙蝠に失礼して、石室内に入っていった。蝙蝠は飛び去った。
石室奥に向かって右側に、弓を引いた戦士を描いた線刻画がある。
上の写真は、フラッシュを使用して撮ったので、分かりづらくなっているが、写真中央の縦の弓なりの線が弓である。弓に横から伸びている線が、左腕である。
写真を拡大して見ると、被り物を被った人物が弓を引いている画であることが分る。何となく厳しそうな表情も見える。写実的な線刻画だ。
石室の奥の石壁には、カマドウマがいる。
石室奥にも線刻画があるが、これも線が見えるばかりで、何を描いているか判別できなかった。
ただただ1500年ほど前にこの辺りに住んでいた日本人の絵心を知った。
さて、狭い石室を抜け出て、次なる目的地に向かった。
鳥取市久末にある六部山3号墳である。
六部山3号墳は、六部山丘陵の北側斜面を利用して築かれた前方後円墳で、全長は約65.5メートル、後円部径は約36メートルである。
埋葬施設の発掘がまだ行われていないため、詳細は不明だが、古墳上から埴輪片や六神頭鏡、鉄鏃が見つかっている。それらの遺物から、4世紀後半に築造された古墳とされている。
初めて大和王権の影響下でこの地域を支配した大豪族の墓であろう。
4世紀後半は、大和王権が西日本を統一し、朝鮮半島に大軍を派遣した時代であり、日本の国力が充実し始めたころの古墳である。
六部山3号墳から南に行くと、鳥取市越路(こえじ)という集落がある。
この集落には、村民が慈雨を願って踊る雨乞踊が伝承されている。
越路集落は、昔から水が十分ではなく、雨水に頼って稲作をしていたそうだ。
記録はないが、口伝では鎌倉時代から雨乞踊は踊られているという。
菅笠一面に枝垂桜のような造花を装い、襷、胸かけ、手甲脚絆、白足袋を着け、両手に撥を持って、腰につけた締め太鼓を叩いて踊るそうだ。
中世に京で流行した踊りの風儀を今に伝えているという。
鳥取市南部は、縄文時代には集落があり、古くから開けた地域であるらしい。
10月の山陰の鮮やかな青空を眺めて、古代から変わらぬ山々を見渡した。