この集落の中央に収蔵庫があり、そこに国指定重要文化財の薬師如来坐像を始めとする五体の仏像が安置されている。
行基菩薩は、天平年間に、聖武天皇の詔勅を奉じて、西日本各地に寺院を建立した。
天平三年(731年)、行基は丹波を訪れ、畑市に薬王山西光寺を建てた。西光寺には、行基が刻んだとされる薬師如来坐像が祀られた。
その後、西光寺は曹洞宗の寺院となった。長い時を経て、寺は衰えて行った。
戦後になって、西光寺は老朽化し、跡継ぎもなく、廃寺となった。
昭和42年に、畑市の中央に収蔵庫が建てられ、西光寺の本尊の薬師如来坐像と、それを囲む四天王像の五体の仏像が移された。
五体の内、薬師如来坐像、多聞天立像、持国天立像、増長天立像の四体が国指定重要文化財で、残り一体の広目天立像が丹波篠山市指定文化財である。
今では、これらの仏像は、畑市の集落の14軒の住民により大切に守られているという。
私が収蔵庫に車で向かうと、道沿いに「薬師如来公開中」と書いた幟が立っていた。仏像を拝観できる。いい時期に来たと思った。
収蔵庫の前に来ると、引き戸が閉まっていて、中から女性たちの話し声が聞こえる。
入るのを躊躇したが、勇気を出して引き戸を開けた。
開けると、正面に木造薬師如来坐像と四天王像が現れた。
仏像の前に座って談笑していた御婦人方4人が脇に下がって、「すみません。いらっしゃいませ」とおっしゃった。
仏像を管理する畑市の集落の御婦人方だろう。
私が、「お参りしてもよろしいですか」と言うと、4人は「どうぞ、どうぞ」と優しく許可して下さった。
私は薬師如来坐像の正面に正座した。
木造薬師如来坐像は、作風からして平安時代中期の作と言われている。どうやら行基の作ではないようだ。
薬師如来は、左掌に薬壷を持ち、右掌を前方に向けて結跏趺座している。柔和な表情である。衣文の流麗な彫りが美しい。
慈愛の気持ちがにじみ出たような御像である。素直に感動した。
私は嘆息しながら薬師如来に手を合わせ、真言を唱えた。オンコロコロセンダリマトウギソワカ。
四天王像は、平安時代後期の作とされている。それぞれ仏法の守護神に相応しく、勇ましい姿をしている。
寺院が無くなった後、このような立派な仏像が博物館に寄託されることもなく、地元住民の手で守られ続けていることに、私は感銘を受けた。
私が御婦人方に、「このような立派な像を、地域の方で大切に守り続けていらっしゃるのですね」と尋ねると、皆少し照れくさそうに笑ってこうおっしゃった。
「ええ、今から50年ほど前まで、村に西光寺というお寺がございました。そこは尼さんが一人で守っておられたのですが、亡くなられて寺はなくなりました。それ以降、西光寺の仏像をここに移して皆で守っているのです」
壇の前には、白黒の西光寺の写真があった。廃寺になる前の西光寺の写真であった。
「今は私たちが檀家となっている別の寺の住職に来てもらい、ここでお経を上げてもらっています」
「毎年3月21日の弘法大師のお祭りから、しばらくの間仏像を公開しております」
正面に向かって左側には、弘法大師像も祀られていた。曹洞宗の寺院の西光寺でも、弘法大師は尊敬されていたようだ。
私は御婦人方の許可を得て仏像の写真を撮った。
私は仏像にも感動したが、御婦人方から滲み出る、この仏像を地域で大事にお守りしようという気持ちに、より一層感動した。
これも、仏様から滲み出てくる慈悲の気持ちがもたらすものだろうか。
仏教では、我々が生きている世界は、それぞれの関係性と条件(縁)に従って生起するだけで、個々の存在には実体がないと考えている。
水溜りに雨が落ちることで泡沫(うたかた)が現れては消えるように、我々自身も、我々の生み出した社会も、この世界全体にも実体はなく、ただ縁に従って生起し、消滅しているだけである。
この実体のない、ただ移り行く現象を生み出す何もない虚空のようなものを、大乗仏教では仏と呼び、智慧と呼んでいる。それは、我々の心を生み出す基でもある。
この虚空の静けさを感じることが出来たら、人は涅槃に入る。泡沫のような生滅も、実は最初から存在していない。生滅滅已(しょうめつめっち)寂滅為楽(じゃくめついらく)である。全てに実体がなく、実体がない事にも実体がないという悟りの境地こそが、本当の楽しみというわけだ。
この悟りの世界から迷える世界を見ると、慈悲の心が溢れてくるという。慈悲のない悟りは偽物であるという。
生きていて苦しいのは、自分の中に失いたくない何か守るべきものがあるからだ。それは地位やプライドや見栄や人間関係かも知れない。幸福や財産や家族や健康かも知れない。
それを失わないようにしようと思い悩むと、精神が不安定になる。だが守るべきものには、最初から実体はないのである。ただ寂静があるのみだ。
私も、仏教の本を読んで、こういうことを知識としては多少なりとも理解しているつもりだが、なかなか実感を持つことは出来ないし、慈悲の気持ちも湧いてこない。
私も迷える衆生の一人だが、慈悲に溢れる薬師如来のお顔は、人々に救いを齎そうとしているのか、自分で気づくように諭しているのか、どちらとも取れる謎めいた表情であった。