橋本38号墳から北上し、鳥取市馬場に鎮座する倉田八幡宮に向かう。
社に近づくと、神社を包む鬱蒼とした社叢が目につく。
倉田八幡宮社叢は、約1ヘクタールの広さを擁する、常緑広葉樹と落葉広葉樹の大径木が混在する森林である。
鳥取平野の森林は、水田開発や宅地開発でほとんど失われたが、倉田八幡宮の社叢は開発による伐採を免れ、今に残っている。
倉田八幡宮の社叢は、平野部に残る貴重な原生林として国指定天然記念物になっている。
社伝によれば、倉田八幡宮は、養老年間(717~724年)に豊前国の宇佐八幡宮を勧請したものと伝えられている。
実際は、この地が石清水八幡宮の荘園になった平安時代に建てられたものだろう。
御祭神は品陀和気(ほむだわけ)命(第15代応神天皇)である。
現在の社殿は西向きであるが、過去には南面していて、今よりも遥かに広大な神域を擁していたらしい。
天正八年(1580年)には、吉川元春が社殿を造営し、神領55石を寄進したそうだ。
だが、天正九年(1581年)の秀吉の因幡攻めで、神域が焼失してしまった。
江戸時代に入り、この地を領した鳥取藩池田家は、倉田八幡宮を一族の氏神と定めて尊崇した。
池田光仲は、寛文元年(1661年)に工事を起こし、社地の西側を南北に通る智頭往来に向けて、西向きに社殿を建てた。
そして社殿から智頭往来までの約800メートルの参道を整備し、参道の両脇に播磨国舞子の松を移し植えた。
しかし今では参道沿いの松はほとんど枯死してしまい、昔の面影はない。
参道の入口に、元禄四年(1691年)に寄進された花崗岩製の鳥居があったようだが、見落としてしまった。
令和5年4月9日に再訪した際、参道入口の鳥居を確認した。
鳥居から境内まで、約800メートルの参道が続いているが、途中舞子浜から移植された松並木の一部が残っていた。
ところで、倉田八幡宮の社殿の北側には、樹齢千年を超えるという御神木の大イチョウがある。
この大イチョウは、樹高約40メートル、幹回り約11メートルの巨木である。
伝説では、天正九年(1581年)の秀吉の因幡攻めの兵火で神域が全焼しそうになった時、この大イチョウから水が噴き出てきて、辛うじて周囲の社叢が燃えるのを防いだという。
私は、植物の中ではイチョウが最も好きなのだが、生命力の強いイチョウは、樹木内に水分を多く貯めこんでいるという。
火災から寺社を守ったイチョウの伝説は、日本各地にある。
池田光仲公が建てた今の社殿は、この御神木に寄り添うように建てられている。社殿の地下には、御神木の根が延びていることだろう。
本殿は、銅板葺の屋根を持つ三間社流造である。極くオーソドックスな本殿だ。
本殿の南側には、椋の大樹がある。
椋の大樹の根が四方に這っている。倉田八幡宮の社叢の地下水の水位は高いらしい。そのため、樹木の根が四方に堂々と延びている。
神社では、この樹を「昇竜の樹」と呼んで尊んでいる。
最近私は、地上の主が植物であると思うようになってきたが、そうなってから山や森林に入って木々を見るのが楽しくなってきた。
木というものは、強さと優しさの両方を持っていると思う。余計なことを喋らないのもいい。
日本人が昔から信仰してきた神様も、樹木のこのような性質と共通するものをお持ちであるように感じる。