牧正一古墳の見学を終えて、更に北上し、福知山市大呂にある臨済宗の寺院、紫金山天寧寺を訪問した。
天寧寺の開創には、鎌倉時代に常陸からこの地に移ってきて地頭になった大中臣(金山)氏が関係している。
貞治四年(1365年)、大中臣(金山)宗泰は、大中臣氏の氏寺に、当時名僧として知られていた愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)を招いて、天寧寺として開山させた。
その後、室町幕府第四代将軍足利義持の帰依を得て、寺は隆盛に向かったという。
愚中周及は反骨の禅僧だったようで、当時華美に流れていた京都五山に抗して、天寧寺では独自の厳格な禅風を守ったという。
山門を潜って広い境内を見渡すと、先ず目に付くのは正面の薬師堂である。
薬師堂は寛政六年(1794年)に建立された。檜皮葺、方三間裳腰付という、禅宗仏殿の様式で建てられたものである。
参拝した時は気づかなかったが、薬師堂の鏡天井には、原在中の筆になる雲龍が描かれている。
家に帰って上の写真を見て、天井画の存在に初めて気づいた。現地で気づいていたら、天井全体を写真撮影していたところだ。
寺院を拝観した時は、天井を見上げることを忘れてはいけないことを再認識した。
薬師堂に祀られる薬師如来坐像は、秘仏のため公開されていない。金色の厨子の前に、御前立の薬師如来坐像が安置されている。
薬師堂の横には、開山の愚中周及を祀る開山堂がある。
開山堂は、寛政五年(1793年)の建立で、六角円堂の土蔵造りという変わった形式である。
漆喰の白が青空に映えて美しい。
薬師堂の裏には、天寧寺の鎮守が祀られている。
参禅と公案によって覚りを目指す禅宗も、寺の守護神として神様を祀るのである。
日本の仏教宗派で、境内に鎮守を置かないのは、ひたすら阿弥陀如来の本願に救いを委ねる絶対他力を唱え、自力行為である祈りという習慣を持たない浄土真宗くらいなものだろう。
天寧寺には、寺宝として、国指定文化財の絹本著色即休契了像、絹本著色十六羅漢像、京都府有形文化財の絹本著色愚中周及頂相(ちんぞう)2福などがある。
即休契了は、中国元朝の禅僧で、愚中周及が元に渡った時に師事した人物である。
禅宗では、師資相承を重視する。覚りは師匠が認めて初めて正覚となる。
愚中周及も即休契了の下で大悟した。修行僧の独り善がりを戒め、正しい教えを維持するための制度だろう。
天寧寺の境内には、厳しい禅風を維持した愚中周及の厳格な態度が今も残っているかのような、ぴりっとした空気が流れていた。