岡山県倉敷市藤戸町天城は、岡山藩家老池田氏が陣屋を置いて治めた陣屋町であった。
江戸時代には、所領が3万石以下の小藩は、城を持つことが許されず、藩庁として陣屋と呼ばれる建物を建てた。
上級旗本や大藩の家老も所領に陣屋を置いた。
岡山藩家老池田由成は、下津井城主だったが、寛永十六年(1639年)に幕府が出した一国一城令により下津井城が廃城となったことから、天城に新たな所領を授かり、陣屋を建てた。これ以降、天城は陣屋町となった。
由成の祖父は、初代姫路藩主池田輝政の兄である。由成の父由之は、後に岡山藩主となった池田光政が、幼少の身で鳥取藩主だったころ、家老として仕えた。由之からすれば光政は、従弟利隆の子である。
このように天城池田家は、藩主である池田宗家に極めて近い家柄だった。
天城の陣屋跡は、岡山県立倉敷天城高等学校の北側の丘陵上の、同校のお茶屋グラウンドにある。
お茶屋グラウンドは、小高い丘の上にあって、結構広い。かつてはこのグラウンド上に、陣屋の屋敷が並んでいたのだろう。
今は、「お茶屋のあと」と刻まれた石碑が建つだけである。
岡山県立倉敷天城高等学校の校内には、昭和2年に建てられた武道場がある。
武道場は、校舎や体育館に囲まれているので、敷地外から目にすることは出来ない。
武道場は国登録有形文化財になっている。こんな古い武道場で稽古をすると、日本武道の雰囲気が出ることだろう。
倉敷天城高等学校の南側には、真言宗の寺院、恵日山後獄寺遍照院がある。
ここは、薬師如来を本尊として祀っている。
薬師如来像を祀る本堂の裏手は、丘になっていて、そこに成田山不動明王が祀られている。
それにしても、神社建築である流造の中に祀られた不動明王というのも、なかなか珍しい。
遍照院には、壁を白い漆喰で塗られた庫裏があるが、この庫裏は下津井城の単層楼を移築したものであるらしい。
堂々たる建物だ。
さて、天城の町並みの西側には、南北に寺院がずらりと並んでいる。
その中で最も北側にあるのが、臨済宗の寺院、西江山海禅寺である。
海禅寺は、天城池田家が菩提寺とした寺である。
海禅寺方丈の欄間は、下津井城の欄間だったという話である。ガラス戸越しに欄間の写真を撮ったが、ガラスに外の軒下が反射して写り、その奥にかろうじて欄間が写った。欄間は、細い木を縦に櫛状にはめ込んだ作りをしている。
また海禅寺の境内にあった子安地蔵が抱いている赤子の表情が、やたらと真に迫っていた。
まるで今にも生きて泣き出しそうな像である。
さて、海禅寺の奥には墓地があるが、その中に天城池田家を供養する石造笠塔婆が残っている。
池田由成は、最初はここに葬られたそうだが、その後遍照院の裏山に改葬されたそうだ。
ここに建つ笠塔婆は、元は由成夫妻の墓石だったが、今は墓ではなく供養塔になっている。
陣屋町天城は、とても静かな場所である。城下町だけでなく、日本各地の陣屋町にも、ひっそりと目立たずに歴史が埋もれていそうだ。