今回の因幡の史跡巡りの最後に訪れたのは、因幡国一宮の宇倍神社である。
宇倍神社は、大化四年(648年)の創建と伝えられる。旧社格は、国幣中社である。
私は今までの史跡巡りで、播磨国一宮の伊和神社、淡路国一宮の伊弉諾神宮、但馬国一宮の粟鹿神社、出石神社、備前国一宮の吉備津彦神社に参拝した。
これで5国目の一宮に参拝したことになる。
宇倍神社は、鳥取市国府町宮下の稲葉山の麓にある。石畳の参道を通って境内に入り、突き当りを左折して石段を登っていけば社殿が正面に見える。
宇倍神社の祭神は、第12代景行天皇、第13代成務天皇、第14代仲哀天皇、第15代応神天皇、第16代仁徳天皇の5代の天皇に大臣として仕えた武内宿禰(たけうちのすくね)命である。
武内宿禰は、戦前までは長年天皇家に仕えた功臣として歴史の授業で教えられ、一円紙幣や五円紙幣に肖像が描かれたが、戦後は架空の人物として正式の教育の場で教えられることはなくなった。
戦後になって歴史教育から「消えた」人物の一人である。
記紀に書かれた5代の天皇の年齢に従えば、武内宿禰は300年以上生きたことになるが、流石にそれはありえない話である。
現実的に1代30年としても、5代で150年である。これもありえない数字だ。
「古事記」の元となる「旧辞」が編纂されたのは、6世紀半ばとされている。仁徳天皇が在位した実際の年代は、西暦400年ころと言われている。「旧辞」編纂の約150年前だ。
150年と言えば、現代人が明治維新を回顧するくらいの時間の経過だ。
かつて仁徳天皇に仕えた高齢の重臣がいたという宮廷内の口承が、「旧辞」編纂の際に、武内宿禰の伝説にまで発展したのではないか。
宇倍神社の社家を代々務めたのは、地元豪族の後裔である伊福部氏である。拝殿蟇股には、伊福部氏の家紋である花剣菱が刻まれている。
現在の本殿は、明治31年に造営された。切妻造り平入りの檜皮葺の建物である。
宇倍神社のあるこの地は、武内宿禰が双履を残して昇天した場所とされている。
本殿の向かって左に、武内宿禰が昇天したとされる亀金の岡があり、武内宿禰の履いていた双履の跡とされる双履石が残されている。
「日本書紀」によれば、武内宿禰は、仁徳天皇五十五年春三月に、360余歳でこの地でお隠れになったという。
記紀や「風土記」の伝承に従えば、大和王権は、第12代景行天皇の時代に西日本を統一し、第14代仲哀天皇の時代に朝鮮半島に出兵し、第15代応神天皇、第16代仁徳天皇の時代に難波の地に巨大古墳を築いた。
現代に伝わる応神天皇陵、仁徳天皇陵が、実際に両帝の陵墓であるならば、あれだけの巨大古墳を建設した当時の日本の国力はかなりのものだったろう。
大和盆地の首長から、西日本の統一者になり、海外にも出兵し、巨大古墳を築くまでに国力を伸張させた5代の天皇の事績を影から支えたという武内宿禰命は、当時の大王家を支えた有能な家臣団を象徴する存在であろう。