寺町の寺院巡りを終えて、洲本市本町4丁目にある厳島神社に参詣することにした。
この神社は、地元では淡路島弁財天とも呼ばれている。
祭神は安芸の宮島の厳島神社と同じ市杵島姫(いちきしまひめ)命である。
市杵島姫命は神仏習合の過程で、いつしかインド由来の水と芸能の神様弁財天と同一視されるようになった。
明治の神仏分離令までは、住民は弁財天として親しんでいたことだろう。
厳島神社の赤鳥居から境内まで参道が続くが、参道には食堂や寿司屋といった飲食店や、スナックやニューハーフバーなどの入った雑居ビルなどが軒を連ねている。
通常参道には、参拝客目当ての土産物屋などが並ぶものだが、ここは地元の酔客相手の飲み屋などが並んでいる。
神社参道と繁華街の組み合わせが、アジア的な雑然と混沌を思わせて、なかなか面白い。
芸能の神様弁財天は、むしろ酔客のカラオケをお喜びになるかも知れない。
カオスな参道を抜けると、厳島神社境内に辿り着く。
厳島神社の創建年代は分らぬが、江戸時代初期まで徳島藩の淡路での政庁のあった由良には今でも厳島神社がある。
寛永八年(1631年)の由良引けで、政庁が由良から洲本に移された。その時に由良から洲本に移った寺院は多数ある。
厳島神社も、由良引けの際に由良から洲本に勧請されたのではないだろうか。
境内には、淡路出身の幕末の国学者鈴木重胤の歌碑や、松尾芭蕉の歌碑がある。
鈴木重胤の歌碑には、「まつ杉は まだほの闇き 木の間より 曙いそぐ 山桜かな」という歌が刻まれている。
鈴木重胤は、平田篤胤に入門を請うたが、篤胤に面会を果たさぬうちに篤胤が死去したため、弟子入りは叶わなかった。
その後重胤は、津和野出身の国学者大国隆正に師事した。
重胤には、「日本書紀伝」などの著作がある。文久三年(1863年)に刺客に暗殺された。
重胤は、宗像三神信仰を研究し、廃れつつあった各地の宗像信仰を復興させたという。
宗像三神の一柱、市杵島姫命を祀る厳島神社に自身の歌碑を建てられて、重胤も本望だろう。
芭蕉の句碑には、「雲折々 人を休むる 月見哉」という句が刻まれている。
天保十四年(1843年)に、洲本の俳人冨艸(ふそう)が、芭蕉150回忌を記念して建てた句碑らしい。
厳島神社には、稲田氏の祖先を祀る稲基(いなもと)神社があったが、明治3年の庚午事変後の稲田家家臣の北海道静内への移住を機に、静内に移転した。
今は稲基神社があったことを示す石碑があるだけである。
この石碑は昭和51年に建てられた。静内には、今でも稲基神社が建っているそうだ。
その隣には、庚午事変を舞台に激動の人生を送った女性の生涯を描いた船山馨の小説「お登勢」の碑がある。
お登勢は、洲本の貧家から稲田家家臣に嫁ぎ、庚午事変を経て静内に移住した女性として描かれているらしい。
厳島神社の社殿は、新しい銅板葺の屋根を持つ建物である。
毎年11月21日から3日間行われる厳島神社の秋の例大祭は、淡路最大の祭りで、最終日には御神体を背負った白装束の男たちが洲本市街を練り歩くそうだ。
稲田家と庚午事変に関する史実は、後世数々の物語を生んだ。
稲田家家臣に限らず、明治以降に北海道に移民した人たちは、それぞれ様々な理由や目的を持って移住したことだろう。
そう考えれば、北海道の住民の出自を巡る物語は、どれも興味深いものである。