由良城跡

 南北朝の争乱の真っ只中だった観応元年(1350年)、紀州熊野水軍を率いる安宅氏は、室町幕府将軍足利義詮から、南朝方だった淡路水軍の討伐を命じられた。

 安宅氏は淡路に渡り、島内で紀州に最も近い由良に拠点を築き、勢力を拡大した。

 安宅氏が築いた由良城跡は、後に池田忠雄が築いた成山城と区別するため、由良古城と呼ばれている。

由良古城のある古城山

 由良古城のある古城山は、由良の町並みの北端に位置する。以下由良古城に至る道を案内する。

 洲本方面から県道76号線を南下し、県道と由良の町中に入る道が分岐する三叉路を右に入る。

 三叉路を右に入って、最初に右に入る民家の間の細い道を入っていく。

由良古城への道(ここを右に曲がる)

 細い道に入ってすぐの突き当りにある倉庫を左に行く。

突き当りの倉庫

 すると道が二股に分かれるので、右の坂道を行く。

二股の道を右に行く

 坂道を上がると右手に墓地が見えて、その先に民家が見える。

由良古城への道

 民家を過ぎると舗装路がそのまま山裾に入っていく。舗装路をしばらく行くと、由良古城を示す小さな看板があるので、そこを右に入り山中に入る。

ここで右に行き、山中に入る。

 山中に入り暫く行くと、古城山の山頂にある曲輪に至る。ここが由良古城の本丸跡だろう。

由良古城跡の曲輪

 今は曲輪の中心に成山神社という小さな祠がある。

成山神社の鳥居

成山神社の祠

 成山神社の祠の北側には、本丸跡より一段下がった曲輪がある。

成山神社北側の曲輪

 こうして見ると、由良古城の曲輪は南北に長く連なっている。この曲輪の北端に立つと、その北側に更に二段の曲輪があった。

由良古城北側の曲輪

 北側最下段の曲輪に降り立つと、周囲の竹林の中で異様な音が聞こえた。獣が走り去る音である。おそらく猪だろうと思った。幸い遭遇せずに済んだ。

北側最下段の曲輪

 南北朝期に淡路にやってきた安宅氏は、その後土着した。戦国時代には阿波から淡路にやってきた三好氏に服属した。

 天正九年(1581年)、秀吉の淡路攻めに際して、淡路の豪族の大半は即座に降伏したが、安宅氏だけは抵抗した。

 安宅氏は最終的には降伏したが、信長に所領を没収されて紀州に追放された。淡路の安宅氏はここに滅んだ。

 由良の地は、古代南海道における淡路の玄関口であった。古くには駅(うまや)が置かれていた。

 だが、由良が町として形成されたのは、安宅氏が拠点を置いてからだろう。

 古城山を下りて、県道76号線を南下すると、由良漁港の出入口の上を越える橋がある。

由良漁港

 この橋の上に立つと、対岸の成ヶ島が見渡せる。成ヶ島は、淡路橋立と呼ばれている。

 成ヶ島は、成山という島に細長い砂州が接続した、南北に細長い島である。

成ヶ島

成ヶ島の砂州

成ヶ島を北から南にかけて撮影

 成ヶ島は、元々北端と南端が淡路本島に接続していたが、明和二年(1765年)に北部で、寛政元年(1789年)に南部で開削工事が行われ、島になった。

 成ヶ島の北側にある成山の上に、慶長十八年(1613年)に洲本藩主池田忠雄が城を築いた。

 これが新しい由良城(成山城)である。

由良城のあった成山

 淡路は大坂の陣の後、徳島藩蜂須賀氏の所領となった。蜂須賀氏は、成山城に城代として家老稲田氏を置き、淡路を支配させた。

 寛永八年(1631年)に稲田氏は拠点を洲本城に移した。

 成ヶ島に行くには船に乗らなければならない。釣り客を乗せる船が運航しているのだろうが、釣り客でもない私は乗らなかった。

 考えてみると、江戸時代の開削工事がなければ、今の成ヶ島の西側の海は、湖だったことになる。

成ヶ島沖を行く漁船

 かつて陸続きだった水路を、漁船が外海目指して走っていた。

 紀淡海峡の先には、紀伊が見える。対岸の和泉も見える。ここから海を越えれば、真っ直ぐ畿内に至ることが出来る。三好氏は、戦国時代にここから畿内に進出した。

 海路から見た歴史というものも、面白そうだ。