旧益習館庭園

 6月12日に兵庫県洲本市の史跡巡りを行った。

 洲本には、今年3月12日にも訪れた。3カ月ぶりの訪問であった。

 洲本の近代化を支えたのは、鐘淵紡績株式会社洲本工場だが、戦後になって洲本の経済を牽引したのは、洲本市上内膳に建てられた三洋電機株式会社洲本工場である。

 ここではニッケル・カドミウム電池の開発生産を行っていた。

三洋電機株式会社洲本工場

 三洋電機株式会社の創業者井植歳男は、現在の淡路市浦の出身であった。

 三洋電機株式会社は、平成23年パナソニックの完全子会社となった。三洋電機洲本工場は、今ではパナソニックの洲本工場となり、電池の生産開発を担っている。

 淡路の近代産業の先駆けとなった淡路紡績会社は、明治29年に洲本町細工町(現洲本市本町)で操業を開始した。

淡路紡績会社の跡地

 淡路紡績会社が建っていた場所には、現在は洲本郵便局が建っている。

 今年5月6日の記事で紹介した洲本市厳島神社から北に伸びる広い道路を堀端筋という。

堀端筋

 堀端筋は、今では洲本市のメインストリートだが、江戸時代には洲本城の外堀だった場所である。明治になってから外堀を埋め立てて道が作られたわけだ。

江戸時代の洲本の町割り(上が南)

 洲本市立淡路文化資料館に、洲本画図と題する江戸時代の洲本の町割りを描いた屏風があった。

 上の写真がそれだが、洲本の町の中心を南北に貫いている堀が外堀である。外堀の東側を内町、西側を外町と呼んだ。

 現在の栄町1丁目交差点には、昔は農人橋という橋が架かっていて、橋の東詰に桝形という方形の広場があり、そこに番所や高札場があった。

農人橋周辺(上が南)

 栄町1丁目交差点の北東側には、今でも農人橋の欄干の石柱が残っている。

農人橋の石柱

 農人橋の南東の、すもと公設市場や洲本市役所がある場所は、かつて徳島藩の会所があった場所である。

徳島藩の会所跡

 姫路もそうだが、城下町のメインストリートは、かつてのお堀を埋め立てて道路にしたケースが多い。

 古地図を持って現代の町を歩き、かつての町並みの痕跡を探すのも面白いだろう。

 さて、元和元年(1615年)に終結した大坂の陣の功労により、幕府から徳島藩蜂須賀氏に淡路一国が加増された。

旧益習館庭園入口

 蜂須賀氏は筆頭家老の稲田氏に淡路の支配を任せた。

 稲田氏は、淡路支配の拠点を由良に置いたが、寛永八年(1631年)に拠点を洲本に移した。これを「由良引け」という。

 稲田氏は、曲田山の北麓に下屋敷を作り、そこに西荘という別荘を建てた。西荘の庭園として築かれたのが、今に残る旧益習館庭園である。

 洲本市山手3丁目の曲田山麓にある。

旧益習館庭園

 旧益習館庭園は、由良引け以後に整備された洲本城の石垣の石切場跡に築かれた庭園である。

 そのため、石切場の巨岩がそのまま庭園の景色として利用されている。

旧益習館庭園の巨岩

 日本庭園というと、どちらかというと繊細で調和の取れた作りのものが多いが、こんなにダイナミックな巨岩がゴロゴロしていながら、閑雅さを残している庭園もあるのである。

 旧益習館庭園は、国指定名勝となっている。
 稲田氏は、嘉永七年(1854年)に学問所を西荘に移し、益習館と称した。

旧益習館庭園に建つ日本家屋

 益習館には、12歳を越えると入学できた。四書五経を中心とした儒学や、兵学や武術を教え、文武両道の教育がなされた。

 明治3年の庚午事変の際、徳島藩士が稲田家邸宅や稲田家家臣の屋敷を襲撃した。益習館もこの時襲撃され庭園を残して焼亡した。

旧益習館庭園

 今旧益習館庭園に臨んで建っている日本家屋は、益習館ではなくその後の個人所有者が建てた邸宅である。

 稲田氏と家臣団は、庚午事変後政府から北海道への移住開拓を命ぜられた。旧益習館庭園は、個人所有となった。

 平成25年、旧益習館庭園は、個人所有者から洲本市に寄贈された。

 旧益習館庭園は、よく整備された名庭園である。池に臨む巨岩を眺めると、心が静かに沸き立つ気になる。

 洲本を訪れた際は、一度は見学した方がいいだろう。