生田神社 前編

 三宮神社から北上し、神戸市中央区下山手通1丁目の生田神社に向かった。

 生田神社は、正月には兵庫県で最多の初詣客を集める、兵庫県を代表する神社の一つである。

 途中、繁華街の生田ロードを歩くが、生田ロードの南端に生田神社の赤鳥居がある。

赤鳥居

 ここからが既に生田神社の参道である。

 神功皇后は、三韓征伐の帰路、神戸沖で軍船が進まなくなったので、神意を占った。すると稚日女(わかひるめ)尊が現れ、この地にわれを祀るよう託宣があった。そのため、海上五十狭茅(うながみのいさち)に稚日女尊を祀らせたのが、生田神社の始まりとされている。

生田神社鳥居

 稚日女尊は、若々しい日の女神という意味で、天照大神の御幼名とも言われている。

 生田神社の社地は、古くは今の新神戸駅北側の砂子山にあったとされているが、布引の渓流が氾濫したので、この地に遷されたという。

 神戸の地名は、この辺りが生田神社の神戸(かんべ)であったことから来ている。言うなれば、生田神社は神戸発祥の元となった神社である。戦前の社格は高く、官幣中社である。

 生田神社正面の鳥居を潜ると、左側に大海神社、右側に松尾神社と、二つの摂社が祀られている。

大海神社

 大海神社は、神戸の地主神である猿田彦大神を祀っている。古くから祀られている神様で、生田神社がここに遷る前から祀られているようだ。

 猿田彦大神は、航海安全の神様であり、文禄元年(1593年)には、朝鮮出兵のため名護屋城に向かう秀吉が船内に祀ったとされている。

 昔から神戸沖を行く船は、神戸沖を通る際は、帆を巻き上げて大海神社に敬意を表したという。

 松尾神社は、酒の神様である大山咋(おおやまくい)神を祀る。

松尾神社

 神功皇后三韓征伐後、三韓の使者が日本に来るようになった。

 日本側は、今の神戸市灘区にあった敏馬(みぬめ)浦で三韓からの使者をもてなしたが、その際生田神社で醸造した酒を振舞ったという。これが、今の灘五郷酒造の発祥であると言われている。

 その縁から、ここに酒の神様である松尾神社が祀られている。松尾神社の前には、灘五郷酒造の発祥地の碑が建っている。

灘五郷酒造の発祥地の碑

 さて、大海神社松尾神社の参拝を終えて進むと、巨大な赤鳥居があり、その先に立派な楼門が見えてくる。

赤鳥居と楼門

 ところで、生田神社周辺には、古来から生田の森と呼ばれる森が広がっていた。清少納言枕草子」にも、「森は生田」という記述がある。

 生田の森は、寿永三年(1184年)二月七日に始まった一の谷の合戦で、源平が衝突した激戦地である。

 この時、源氏方の武将梶原景時の長子梶原景季は、境内に咲き誇る梅の一枝を折って箙(えびら)に差し、獅子奮迅の働きをしたとされている。

 楼門の左手には、その箙の梅と言われる梅が咲いている。

箙の梅

 勿論今植えてある梅が、寿永の頃に咲いていた箙の梅そのものではないだろうが、剛の者であると同時に、数寄者でもあった景季を偲ぶよすがにはなろう。

 また楼門の右手には、梶原の井と呼ばれる井戸がある。

梶原の井

 伝説では、梶原景季がここで水を汲んで、生田の神に武運長久を祈ったという。

 また、景季の箙に梅をさした姿が、この井戸の水に映ったので、鏡の井戸とも言われている。

 生田神社の顔と言っていい楼門は、鮮やかな朱色に彩色されているが、戦後に再建された新しい門である。

楼門

 生田神社周辺や生田の森は、源平合戦以後も、南北朝時代湊川の合戦、戦国時代の花隈城を巡る織田軍と荒木村重軍の戦い、神戸大空襲などの戦火に襲われた。

 近くは阪神淡路大震災で拝殿、本殿が倒壊した。

 そんな戦火や災害から何度も復活してきた生田神社は、まさに神戸を象徴する神社である。

 もし神戸という街に心があるとしたら、それは生田神社にあるような気がする。