神戸らんぷミュージアムを出て、神戸市中央区三宮町2丁目にある三宮神社まで歩いた。
神戸には、厄除八社と呼ばれる八つの神社があり、それぞれ一宮から八宮の名で呼ばれている。
一宮神社から八宮神社までの祭神の内、大己貴尊を除く七柱の神様は、天照大御神と須佐之男命との間の誓約の際に生まれた神様である。
三宮神社の祭神は、湍津姫(たぎつひめ)命である。田心姫命と湍津姫命と市杵島姫命は、須佐之男命が佩いていた剣を天照大神が噛み砕いて吹いた破片から出来た神様とされている。須佐之男命の物実(ものざね)から生まれたので、系譜上は須佐之男命の子とされる。
この三女神は、宗像三女神と呼ばれ、筑前の宗像大社に祀られている。
三宮の地名は、この三宮神社から来ている。
三宮は、今や神戸最大の繁華街で、三宮神社の周辺には商業施設が立ち並び、人通りも多いが、幕末から明治維新にかけては、三宮神社周辺は田園地帯で、社の周辺には鬱蒼とした鎮守の森があった。
三宮神社南側の道路は、旧西国街道である。慶応四年(1868年)一月十一日に、この三宮神社前で発生したのが、今まで当ブログで何度も紹介してきた神戸事件である。
鳥羽伏見の戦いに際し、新政府は岡山藩(備前藩)に西宮の警備を命じた。
西国街道を東に進んでいた岡山藩兵の列が三宮神社前に差し掛かった時、列をフランス水兵2名が横切ろうとした。
水兵を制止しようとして槍を使った岡山藩士に対し、水兵が発砲し、相互の銃撃戦になった。
居留地に滞在していたイギリス領事パークスは、神戸港沖に停泊していた米英仏艦から陸戦隊を上陸させて、神戸を占拠した。
そして新政府に対して謝罪と関係者の処罰を迫った。
まだ日本全体を掌握しておらず、立場の弱かった新政府は、外国側の要求を飲まざるを得ず、岡山藩第三砲兵隊長瀧善三郎に自決を命じた。
瀧善三郎は、兵庫の永福寺(現存しない)で、6ヵ国の代表が立ち会う前で切腹した。
私は今までの史跡巡りで、瀧善三郎が自決した永福寺から移された能福寺の瀧善三郎供養塔、岡山市にある瀧善三郎の墓、瀧善三郎の地元の七曲神社にある慰霊碑を巡ってきたが、今回事件発生地を訪れることが出来た。
日本の国力が弱いころに、外国の無体な要求の犠牲になって、国を外交上の危機から救った瀧善三郎を、後世の日本人は忘れずに顕彰しているのである。
さて、神戸事件発生地の碑の脇に植えられた梅が美しく咲いていた。
紅梅と白梅の両方が咲いている。人の世の移ろいにかかわらず毎年咲くのは花である。
三宮神社の境内には、河原霊社という小さな祠がある。
寿永三年(1184年)二月七日に始まった一の谷の合戦で、敵陣に一番乗りをした功名手柄を立て、討ち死にした源氏方の勇士河原太郎高直、河原次郎盛直の兄弟を祀る祠である。
江戸時代までは、河原兄弟を祀る塚と馬塚が、この辺りにあったそうだが、神戸港開港後の開発で、いつしか塚は失われた。
大正11年4月、三宮三丁目の有志が、源平合戦の遺跡を世に残し、河原兄弟を祀るため、河原霊社を建てた。
だが、その後も三宮の開発が進み、河原霊社は移転を余儀なくされ、昭和46年に三宮神社境内に遷った。
日本の神社仏閣の建物は、古くなったり災害兵火に遭うと建て直されるが、祀られる場所が動くことは稀である。
今、三宮に建つ商業施設の入った建物は、200年後には全て建て替えられているだろうが、三宮神社は、恐らく今と同じ場所に変わらず祀られていることだろう。
日本の神社仏閣は、その土地の歴史を後世に伝えてくれる大切な場所である。