園部城跡のある園部の中心街から東に行き、南丹市園部町美園町にある生身(いきみ)天満宮を訪れた。
小雨の降る中での訪問である。
生身天満宮は、元々小麦山にあった。ここには菅原道真公の別荘があり、道真公の臣下武部源蔵が別荘を管理していた。
道真公もこの地をたびたび訪れていた。
延喜元年(901年)に道真公が大宰府に左遷された時、道真公は八男慶能(けいのう)の世話を源蔵に頼んだ。
源蔵は、道真公の小木像を刻んで、小麦山の邸宅に祀った。
延喜三年(903年)に道真公が没すると、源蔵は道真公の生祠を霊廟に改めた。
これが生身天満宮の起こりである。
天暦九年(956年)に神社として改めて祀った。
まだ存命中の道真公を祀っていたことから、生身天満宮と呼ばれている。
世に天満宮は数多いが、道真公が生きている時から道真公を祀っていたものはない。よって、生身天満宮は、最古の天満宮と呼ばれている。
園部藩主小出家が、園部城を築城した後の承応二年(1653年)に、社殿は現在地に移された。
本殿は、檜皮葺の一間社流造である。
周囲を瓦葺の回廊と拝殿に囲まれ、全体像を写すことが出来ない。
この本殿に、武部源蔵が彫った生身の道真公の木像が祀られているのだろうか。
本殿の脇には、道真公の使いである牛の石像がある。
菅原家は、道真公の祖父・菅原清公が学問で身を立て、桓武天皇の侍読になってから、歴代文章(もんじょう)道を家業とするようになった。
大化の改新以降、朝廷の要職は藤原氏が押さえていたが、その中で道真公は右大臣まで昇りつめた。
宇多天皇の信認が厚かったようだ。
退位後の宇多法皇から道真公は重用されたが、宇多法皇から政治の実権を取り戻そうとした醍醐天皇と左大臣藤原時平の策謀により、道真公は大宰員外師(だざいいんがいのそち)という閑職に追いやられた。
大宰府に行った道真公は、「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」と歌った。
京の自邸の梅に、主が居なくなったからといって、春を忘れることなく咲いて、香りを東風に乗せて私のいる大宰府まで送ってくれと呼びかけた歌である。
道真公は、死後その祟りを恐れた朝廷から天神として祀られたが、梅は天神様を象徴する花になった。
道真公の子孫は、その後も主に学問によって朝廷に仕え、平安中期以降の元号のほとんどを道真公の子孫が勘考したという。
参道脇には、生身天満宮より古い承和十二年(845年)からこの地の地主神として祀られている弁財天(厳島神社)がある。
弁財天のお告げにより、琵琶湖の竹生島からここに弁財天を勧請して創建されたという。
女性が参拝すれば、美しくなると言われている。
拝殿には、女性が奉納した扇形の絵馬が掛かっている。
境内には、昭和7年に武部源蔵の没後千年を記念して建てられた武部源蔵社がある。
武部源蔵社の前にある宝篋印塔は、武部源蔵の墓石である。
墓石には、没年として承平三年(933年)六月二十九日と刻まれている。
もちろんこの墓石は、それより遥か後世に建てられたものだろう。
武部源蔵は、主君の道真公没後も道真公の霊を30年に渡って祀り続けた。
その主君を慰霊した源蔵の気持ちは、こうして現在も生き続けている。