帝釈山から下山して、神戸市北区山田町中にある六條八幡神社に向かった。
今六條八幡神社のある場所は、朝鮮征伐に際し、丹生山の丹土を求めるため、この地に行幸した神功皇后の行宮址とされている。
長徳元年(995年)、周防国の基灯法師が神功皇后ゆかりのこの地に来て、黒木の宝殿を一宇建立し、八幡三所の神霊を勧請した。当初は若宮八幡宮と呼ばれていた。
その後保安四年(1123年)、六條判官源為義(頼朝の祖父)が、山田庄の領主となった際、京の左女牛(さめがい)の自邸に祀っていた八幡大神をこの地に勧請し、古くから祀られていた八幡神と合祀した。
それからは、為義の役職に因んで、六條八幡宮と呼ばれるようになった。
その後、山田庄は平家の領地となったが、平家滅亡後、頼朝が京都六條の若宮八幡宮に山田庄を寄進した。山田庄はこのように源氏にゆかりのある地である。
六條八幡神社の特徴は、神社でありながら境内に三重塔があることである。神仏混淆時代の名残だ。
神社にある三重塔は、全国で18棟あり、その内3棟が兵庫県にある。兵庫県にある3棟の内、私は既に丹波市にある柏原八幡神社の三重塔を見学した。2つ目がこの六條八幡神社のものである。3つ目は、養父市の名草神社にある。上手くいけば、次の但馬の旅で紹介することが出来るだろう。
六條八幡神社の境内には、神戸市の市民の木に指定されているイチョウがある。
夏の緑のイチョウは涼しげでいいものだ。
拝殿は、吹き抜けとなった舞台のような形の建物である。
ところで六條八幡神社には、神戸市指定有形文化財となっている能舞台がある。うっかり見過ごして、ちゃんと写真に収めることが出来なかったが、上の写真の右隅にかろうじて一部が写っている。
本殿は貞享五年(1688年)に建てられたもので、これも神戸市指定有形文化財である。一般的な流造だ。
本殿の隣には、六條八幡神社が円融寺という寺院だったころの名残の薬師堂が建っている。
円融寺は、第64代円融天皇の祈願所として建てられた。円融天皇が没したのは、六條八幡神社が創建された長徳元年(995年)の4年前だから、基灯法師が円融天皇を弔うためにこの地に先ず円融寺を建て、その鎮守として八幡大神を勧請したというのが、実際の順序だったろう。
そして明治の廃仏毀釈で円融寺が廃寺となり、鎮守の八幡神社が残ったのだろう。
六條八幡神社の境内にある三重塔は、私が史跡巡りで訪れた20番目の三重塔である。
六條八幡神社三重塔は、文正元年(1466年)に地元の有力者鷲尾綱貞が建てたものである。
総高17.42メートルで、檜皮葺の屋根を持つ。屋根の端が反り上がっているところは室町時代の特色をよく現わしているという。国指定重要文化財である。
この塔は、かつては朱色に彩色されていたそうだ。今でも木材の一部に当時の彩色が残っている。
朱色の鮮やかな三重塔もいいが、今のように木材の地肌がむき出しの三重塔もいいものだ。
二階、三階に付けられた手摺が優美である。
三重塔の内部には、寺院であれば大日如来像が祀られていることが多いが、神仏分離後のこの三重塔の内部には何が祀られているのだろう。
凝った彫刻などは施されていないが、檜皮葺の屋根の反りの鋭さと斗栱などの木材の組み物がひたすら美しい、観ていて飽きが来ない塔である。
八幡信仰は、豊後国宇佐の御許(おもと)山の巨石信仰に、応神天皇を八幡大神とし、その母・神功皇后を神母とする崇拝が加わり、宇佐地方に古くから伝わった仏教とも習合された信仰である。
源氏が八幡大神を氏神としたことにより、武神としても崇拝されるようになった。
八幡大神は、まさに日本の守護神のようなものである。八幡信仰の源である御許山にいつか行ってみたいと切に願うようになった。