コレクション展示室の古地図や名所図会(ずえ)のコーナーに入った。
目につくのは、17世紀に作成された「大坂から長崎迄航路図」である。
「大坂から長崎迄航路図」には、紀伊から淡路、四国を通って鹿児島経由で長崎に行く南側ルートと、瀬戸内海から玄界灘を通って長崎に行く北側ルートの2つの航路図がある。
瀬戸内航路の図は、私にとって親しみのある地域なので、見ていて興味深い。
この図が描かれた年代は、図の中にヒントがあるという。
大坂の図を見ると、大坂城の西側に島があって、島の中を水路が十字型に通り、その中心部に四つの橋が架かっているのが分る。これが今の四ツ橋交差点である。今は橋はなくなり、東西の水路が長堀通になっている。交差点名に四ツ橋が架かっていたころの名残があるだけである。
その西側に九条島がある。貞享元年(1684年)から4年間かけて九条島を割って安治川を通す工事が行われた。
図の九条島はまだ割れていないから、この図は貞享元年(1684年)以前に描かれたことになる。
また、上の図には写っていないが、尼崎城の西側に、寛文九年(1669年)に開拓された、道意新田が載っている。
これらの情報から、この図が、寛文九年から貞享元年にかけて描かれたものであることが分かる。
西播磨地方を見ると、姫路城と赤穂城の間に、「室」と大きく書かれている。今の兵庫県たつの市御津町の室津のことである。
当時は室津が瀬戸内海航路の重要な拠点だったことが分かる。
備前の図を見ると、児島半島がまだ島であることが分かる。以前「藤田神社」「興除神社」の記事で児島湾干拓のことを書いたが、この時代はまだ湾にすらなっていない。
また、コレクション展示室には、神戸市在住で古地図、地誌史料の収集家・川口辰郎氏から寄贈を受けた名所図会が多数展示されている。
名所図会とは、江戸時代後半に出版された、絵入りの旅行案内書である。
私が史跡巡りに使っている「歴史散歩シリーズ」の原型のようなものだろう。
例えば、文化十一年(1814年)に出版された「阿波名所図会」では、鳴門の渦潮の紹介ページが開かれている。
文化九年(1812年)出版の「紀伊国名所図会」第三編では、高野山奥の院の紹介ページが開かれている。
名所図会と題した旅行案内書は、安永九年(1780年)に出版された「都名所図会」が最初のものとされる。
江戸時代後半には、お伊勢参りや、四国八十八ヶ所参りといった巡礼の旅を、庶民たちも行うようになった。
江戸時代後半になって、ようやく旅行に行く経済力を持つ人が出て来たのだろう。
名所図会の登場も、そういった世相を反映している。
ところで名所図会シリーズは、江戸時代の通俗的な旅行案内書で、数多く出版されたためか、今でもそれほど古書価が高いわけではない。買えないものではない。
現代の史跡と比べるため、図書館にある復刻版でもいいから、読んでみたいものだ。
さて、神戸市立博物館の収蔵品で、最も貴重と言っていいのが、国宝の桜ヶ丘銅鐸銅戈群である。
昭和39年12月10日に、神戸市灘区桜ヶ丘町の山中で土取りの作業中、偶然発見されたのが、桜ヶ丘銅鐸銅戈群である。
まとめて14個の銅鐸と7本の銅戈が発見されたが、銅鐸の内4個は、絵画が刻まれた銅鐸であった。
上の4号銅鐸は、左上にトンボ、左下にイモリ、右上にカマキリとクモ、右下にスッポンが描かれている。
上の5号銅鐸は、左上に蛙と蛇と人間、左下に3人の人間、右上にカマキリとクモと蛙、右下に鹿を狩る人間が描かれている。
銅鐸は、弥生時代の日本で広まっていた祭器である。この銅鐸に描かれているものを見ると、当時の人々の精神世界が垣間見える気がする。
当時の人々にとって、虫や動物が関心の対象だったようだ。
これら絵画銅鐸の価値が評価され、昭和45年に桜ヶ丘銅鐸銅戈群は国宝に指定された。
航路図や名所図会や銅鐸銅戈を見ると、古くから少しづつ地誌も人間の関心の対象も変化していることが分かる。
現代人は、自分たちが生きている今現在が、人類の歴史の最終形態と思いがちだが、我々も通過点を生きているに過ぎない。
西暦4100年の人間からすれば、西暦2022年の世界は通過点に過ぎない。
しかし、4100年の人間の中には、2022年の日本の地誌がどうで、人が何に関心を持っていたかについて興味を持つ者もいるだろう。
そう思うと、今自分がやっている史跡巡りも、記録として残れば、それなりに意味があるような気がする。