御前浜から東に行き、東川を越えて、西宮市今津真砂町にある今津砲台の跡地に赴いた。
今津砲台は、西宮砲台と同じく、江戸幕府が文久三年(1863年)から慶応二年(1866年)にかけて建設した砲台である。
西洋式砲台だったというから、形状は西宮砲台と同じであったろう。
今津砲台も、実戦で使用されることなく明治時代を迎えた。
大正4年には民間に払い下げられ解体された。
今津砲台に使用されていた花崗岩は、石材として今津港から運び出された。
今津砲台跡の記念碑が海沿いに建っているが、この碑の石は、元々今津砲台を構成していた石材である。
今津砲台跡のあるこの付近は、今津港という港である。
今津港は、寛政五年(1793年)に築港された。
大坂湾から江戸に新酒を運ぶ樽廻船が発着する港であった。
樽廻船は、平均約1週間という速さで酒を灘五郷から江戸に届けた。
文化七年(1810年)に、今津の酒造業者、長部本店(現大関酒造株式会社)の五代目店主長部長兵衛が資材を投じて、今津港の先端に灯台を建てた。これが今津灯台である。
今津港を利用する樽廻船や漁船の安全のために建てられた灯台である。
現在も、長部本店の後身の大関酒造株式会社が今津灯台を管理している。
灯台は建設後老朽化したが、安政五年(1858年)には、長部本店六代目長部文次郎により再建された。
灯台は、元々は今津砲台の記念碑の対岸に建てられていたが、昨年の令和5年に現在地に移築された。
灯台の台石には、安政五年に灯台を再建した長部長治郎の名が刻まれている。
象頭山とは、讃岐の金毘羅大権現のことを指す。金毘羅さんは、航海安全の神様である。この灯台を、金毘羅大権現に奉納するという意味で、この銘を刻んだのだろう。
今津灯台は、当初は光源に燈明を使い、油皿をつるべ式に滑車で引き上げる行燈式燈明台であった。
大正年間に灯台が電化された際、風を防ぐ油障子が取り除かれた。
今の灯台は、昭和59年に大修理を経て、元の姿に復元されたものである。
今津灯台は、今も海上保安庁の航路標識としての役割を務めている現役の灯台である。
現役灯台としては、日本最古の灯台であるらしい。
四囲を海に囲まれた日本は、恐らく世界で最も灯台を有する国だろう。
海洋国家日本を象徴するものとして、灯台の活躍にはもっと目を向けるべきであろう。