能引寺の虎御前の墓に手を合わせた後、再び鳥取市用瀬町に戻った。鷹狩にある真言宗の寺院、医王山大安興寺を訪れた。
大安興寺は、かつては今の寺の背後にある医王山上に伽藍があったが、昭和になって麓に移った。
7世紀に播磨や丹波にて数多くの寺院を建立した法道仙人は、どうやら因幡にも来たようだ。
伝説によれば、法道仙人が大化元年(645年)に医王山を訪れ、ここを霊境とした。
和銅二年(709年)、行基菩薩がこの地を訪れ、医王山に大安興寺の伽藍を建立した。
大安興寺は、戦国の世に戦乱のため焼失したが、寛文十二年(1672年)に鳥取藩主池田光仲公によって再建された。
幕末には、西郷隆盛と月照上人が、一時この寺に隠れ住んだという。
大安興寺は、昭和37年に火災により焼失し、昭和40年に医王山麓の現在地に移転した。
医王山の登山口に来てみると、医王山に寺があった当時の参道入口の標柱はまだ残っていた。
参道の間に、JR因美線の線路が通っている。因美線は大正8年に鳥取ー用瀬間が開通したそうだから、その当時から線路は参道を分断していたことになる。
線路の向こうに参道が続いている。参道両脇に地蔵像がある。
参道に入ると、寺院への丁数が刻まれた石仏があった。山上に寺院があった昭和までの信仰の形がまだ残っているかのようだ。
石仏には、「宝暦三年(1753年)三月」「用瀬女中」と刻まれている。当時、用瀬城下の女性たちが願いを込めてこの石仏を奉納したのだろう。
現在の大安興寺は、麓に移されている。私が訪れた時は、凄まじいばかりの雨が降っていた。雨に濡れながらの参拝となった。
大安興寺には、寺宝として、鳥取県指定保護文化財の「絹本著色釈迦十六善神像」や、鳥取市指定保護文化財の「絹本著色不動明王図」「絹本著色愛染明王図」「絹本著色三宝荒神図」「五大明王図」がある。
様式から鎌倉時代の作とされている。鎌倉時代の、医王山上での寺の隆盛の様が窺われる。
これら寺宝は、現在は鳥取県立博物館に寄託されている。
大安興寺の参拝を終えると、車を北に走らせ、鳥取市河原町佐貫にある曹洞宗の寺院、大義寺を訪れた。
大義寺の来歴はよく分からない。この寺は、戦国時代に一時因幡の覇権を握った武将武田高信が謀殺された寺だという。
武田氏は、山陰の守護大名山名氏の客将として、文明十一年(1479年)以来因幡の国人衆の鎮撫に努めた。
永禄七年(1564年)、武田高信は、毛利氏と結んで因幡守護の山名豊数を追放し、鳥取城を拠点に因幡の覇権を握った。
その後高信は、尼子氏配下の山中鹿之助や、因幡山名家を継いだ山名豊国との戦いに敗れ、天正元年(1573年)に鳥取城を失った。
武田高信の死亡時期には諸説あるが、貞享五年(1688年)に成立した「因幡民談記」という書物によれば、高信は天正六年(1578年)に山名豊国に叛意を疑われ、偽の命令により大義寺におびき出され、斬殺されたという。
従来はこの「因幡民談記」の記述が通説とされてきたが、高信の死から100年以上経って、鳥取藩士が地元の人から聴取した内容を集めたこの書物は、史料としては使えないだろう。
同時代を生きた小早川隆景や吉川元春の書簡に高信の死亡情報が出てくるそうだが、これら一次資料の方が信憑性が高い。
大義寺の北側に、武田高信の墓とされる宝篋印塔がある。
5つ並ぶ石塔の内、中央の宝篋印塔が武田高信の墓とされている。左右の宝篋印塔は、共に死んだ家臣の墓とされている。
大義寺には、高信の法名が伝えれているので、この寺が高信と何らかの関りがあるのは間違いなさそうだ。
大義寺は、天正十八年(1590年)に焼失し、一時廃寺になったが、慶長二年(1597年)に鳥取天徳寺第六世鉄州和尚により再興されたという。
高信の墓の側には、多数の無名の供養塔が集められている。これが高信配下の武士の供養塔なのかどうかは分らない。
誰のものかは分からないが、この世界に少しの間生まれ出て死んだ人を供養するものには間違いないだろう。
この世界に現れては消えた無数の命の膨大さに思いを馳せた。