賀集八幡神社 後編

 本殿の背後に、高龗(たかおかみ)神社がある。別名青龍権現社という。京都の貴船神社の祭神と同一である。

 由来は不詳なるも、古くから水の神として地元では崇敬されてきた。

高龗神社

 祠に寛政の銘があるので、創建はそれ以前とされている。

 淡路は川が少ない。昔から農業用水の確保には苦労していたことだろう。この場所は、雨乞いの神事が行われた場所だろう。

 賀集八幡神社の南側には、摂社の八坂神社がある。

八坂神社

 この八坂神社は、明治3年までは、近くの淳仁天皇陵に祀られていた。

 京都祇園の八坂神社と同じく、素戔嗚尊を祭神とし、淳仁天皇を相殿に祀っていた。

 明治3年の神仏分離令により、賀集八幡神社の境内に遷座することになった。

 八坂神社が祀る素戔嗚尊は、神仏分離までは、釈迦が説法した祇園精舎の守護神の牛頭天王として祀られていた。八坂神社も祇園社と呼ばれていた。

拝殿

 明治の神仏分離で、仏教色のある牛頭天王を祀る祇園社は、悉く祭神を素戔嗚尊に変更され、社名も八坂神社に替えられた。

 仏教色のあった祇園社天皇陵から遠ざけたのだろう。

 ここに八坂神社があるのも、明治の神仏分離の余波である。

本殿

 八坂神社本殿の隣にある神輿庫には、華麗な装飾が施された神輿がある。

神輿庫

神輿

 この華麗な神輿が、祭事の時に陽光の下を進む姿を見てみたいものだ。

 八坂神社の南側には、明治35年に建立された芭蕉の句碑がある。

芭蕉の句碑

 句碑には、「梅が香に のっと日の出る 山路かな」という句が刻まれている。

 元禄六年(1693年)の春にこの地を訪れた芭蕉が、梅が香の薫る境内から東を望んで、野田山の辺りから日が昇るのを見て詠んだ句である。

 芭蕉句碑の奥に、花崗岩製のアーチ橋が架かっている。南あわじ市指定有形文化財八幡橋である。

八幡橋

 かつて賀集八幡神社の参道に跨る山路川に板橋が架かっていた。

 だが板橋は、増水のたびに破損し、人馬の往来に不具合が生じていた。

 地元の豪農の印部喜与門が私財を投じ、明治11年に完成したのが、この八幡橋である。

八幡橋

丸に四ツ目の要石

 八幡橋は、昭和45年に山路川の改修工事により現在地に移転された。 

 堅牢で荘厳な造形のアーチ橋である。

 明治時代は、神仏分離が進んで、神道原理主義化、純粋化していった時代だが、その一方でこのような西洋風の建設物が続々と造られていった。

 両極端が併存した時代だが、それがむしろ面白いのかも知れない。