片山家墓所

 京丹波町本庄にある阿上三所神社の参拝を終え、北西に向かう。

 京丹波町坂原にある阿上三所神社を訪れた。

坂原阿上三所神社

鳥居

 この神社は、安栖里(あせり)地区の地頭であった片山氏が、観応元年(1350年)に本庄の阿上三所神社から祭神を勧請したものと伝えられている。

 片山氏は、元々は武蔵国新座郡片山郷に所領を持っていた鎌倉幕府御家人であった。

 承久四年(1222年)に、片山氏は丹波国和知荘の新補(しんぽ)地頭となった。

参道のイチイガシ

 鎌倉幕府が成立した時、源頼朝は、国衙領、荘園の治安維持を行うという名目で、配下の御家人を各国衙領、荘園の地頭に任命した。

 地頭は、国衙領、荘園の治安維持を行う代わりに、その土地から収穫された年貢の一部を入手した。

 鎌倉時代初期には、幕府の地盤であった東国には地頭が配置されていたが、まだ朝廷や寺社の勢力が強かった西日本には、地頭が少なかった。

参道の欅

 ところが承久の乱で、朝廷側が幕府に敗北すると、幕府は西日本の国衙領、貴族や寺社の荘園にも地頭を任命した。

 承久の乱後に関東の御家人が、西日本の荘園の地頭になった例は数多くある。

 和知荘は、京都の仁和寺摂関家九条家の荘園だったが、承久四年に関東御家人の片山氏が地頭に任命され、その後は実質的に片山家の所領と化していった。

参道の藤

欅にからまる藤の枝

藤の枝

 坂原の阿上三所神社は、その片山氏が鎮守として勧請した神社なのである。

 参道には、イチイガシやケヤキ、フジの古木が生えている。

 特に藤は、枝が蔓のように伸びて他の木に絡まっていて、強靭な生命力を感じさせてくれる。

楽殿

 現在の社殿は、天保六年(1835年)に改築されたものである。

 本殿は覆屋に覆われている。三間社流造で、祭神は伊弉諾尊伊弉冉尊国常立尊である。

本殿

 室町時代初期に、地頭によって荘園に勧請された神社を見ると、昔の人にとって、新しく開いた土地に神様を勧請して、神社を建てるということが重要なことであったのが分かる。

 戦後に出来た新興住宅街には神社がない。神社がある集落は、それだけで歴史が古いと見做すことが出来る。

 坂原阿上三所神社の秋の祭りでは、馬乗りと呼ばれる弓射が奉納されている。中世の祭礼芸能の姿をよく伝えるものだという。

蟇股の彫刻

 坂原の阿上三所神社の北西には、中という集落がある。

 中集落の西端に観音堂があるが、その脇に墓地がある。

観音堂

 墓地の片隅に、この地域を治めた豪族、片山家の墓所がある。

 片山氏は、鎌倉幕府滅亡後は、足利尊氏に味方し、室町幕府の下で和知荘の地頭職を続けた。

片山家墓所

 戦国時代に入っても、片山氏は地域の土豪として存続し、明智光秀丹波攻めに際しては、光秀に味方したようだ。

 当時の土豪地侍は、国人衆とも呼ばれていた。

 国人衆は、自ら田畑の耕作もしながら武装して所領を治め、国の支配者である大名に服属したり反抗したりする、地元に密着した武装勢力であった。

片山家墓所

 承久年間に関東から和知荘にやってきた片山氏は、戦国時代には地元密着の豪族になっていた。

 しかし秀吉が天下を統一し、刀狩りを始めた。

 大名に直属する家臣以外の、半武士半農民のような地元密着の土豪たちは、豊臣政権によって武装解除された。

片山家墓所

 片山氏は帰農して農民となった。

 現在でも片山家は中の集落に残っている。旧庄屋らしい大きな邸宅である。そこから眺めると、旧和知荘の田園風景が一望できる。

旧和知荘の風景

 安土桃山時代に帰農した土豪たちは、江戸時代には村を代表する庄屋として存続した。

 片山氏も、この地区の庄屋として明治時代を迎えたことだろう。

 片山家には、鎌倉時代からの記録が書かれた片山家文書が残されている。

 中世の丹波を知る史料として、重要な価値を有するそうだ。

 地方の村落と神社には、中世から続く歴史がタイムカプセルのように残されている。