玉松城跡 後編

 北の丸跡から本丸跡に向かう。本丸跡は広々とした曲輪である。

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本丸跡

 本丸跡には、石垣の石か建物の礎石と思われる石が転がっている。その石の上に、古い瓦が置かれていた。

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石の上の瓦

 城の建造物の痕跡が、僅かながらここに残っていた。

 また、本丸跡には、松田氏主従一族の供養塔が建っている。

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松田氏主従一族供養塔

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 通常石造五輪塔の各石には、地水火風空を現す梵字が刻まれているものだが、この石造五輪塔の各石には、妙法蓮華経のそれぞれの字が彫られている。

 法華経を信仰した松田氏の供養塔に相応しい。

 本拠地を玉松城に移した松田左近将監元成は、文明十六年(1484年)に天王原の合戦で浦上宗則に敗れ、非業の最期を遂げた。

 松田左近将監元成の墓については、当ブログ令和元年12月18日の記事「瀬戸町」で紹介した。

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玉松城碑

 供養塔の傍には、昭和41年に建てられた玉松城碑がある。この碑に記載があるとおり、玉松城は永禄十一年(1568年)に宇喜多直家により攻め落とされた。

 これにより、備前松田氏は滅亡する。玉松城の主は、直家の弟の宇喜多春家になった。

 本丸跡から一段下りたところに、天守の井戸がある。

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天守の井戸

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 天守の井戸の直径の大きさと深さは驚くべきもので、写真ではなかなかこの迫力は伝わらない。ここに落ちると、もう這い上がれないだろうと思われる巨大な井戸跡だ。

 かなりの城兵が籠城することを想定して掘られた井戸のようだ。

 本丸から南に歩くと、枡形虎口の跡がある。

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枡形虎口跡

 ここは、二の丸と本丸の間にあった門の跡である。

 南北に伸びる二の丸跡には、杉の木の井戸がある。

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杉の木の井戸

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 杉の木の井戸の西側には石塁があり、井戸の石積みも半ば残っている。ここは小規模な井戸である。

 関ケ原の合戦後、備前の領主になったのは小早川秀秋である。秀秋の下では稲葉伯耆守が金川を知行し、石垣の改築をしたという。

 その後、慶長八年(1603年)からは、岡山藩池田家の家老日置忠俊が金川を知行し、臥龍山に新城を築いたと伝わっている。

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二の丸跡

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二の丸跡からの南側の展望

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二の丸跡の土塁の跡

 今の城跡の曲輪の構成が、松田氏、宇喜多氏、小早川氏、日置氏いずれの時代に築かれたものかは分からない。
 二の丸跡の東側には、土塁が築かれているが、これなどは松田氏の時代のものではないかと思う。

 玉松城は、元和元年(1615年)の一国一城令で破却された。その後、明治になって山上にあった石垣が麓の妙覚寺の石垣として利用されたことは、既に紹介した。

 玉松城跡は、西備前の山城跡としては最大級の規模を持つ城跡である。今でも金川の町のシンボルとして、地元の誇りの源になっていることだろう。

 さて、金川の町から北に約5キロメートルほど行った岡山市北区御津鹿瀬に、不受不施日蓮講門宗の本山久遠山本覚寺がある。

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久遠山本覚寺

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本覚寺本堂

 江戸時代に日蓮宗不受不施派が禁教とされ弾圧された際、不受不施派は地下に潜った。

 江戸時代には、幕府は民衆に寺請けを義務付けた。民衆は地元の寺に寺請けをしてもらって、キリスト教徒や不受不施派ではないことを証明する寺請証文を出してもらった。旅行や転居の際には、寺請証文が必要になった。これを寺請制度という。

 民衆は、寺請けしてくれた寺の檀家になり、自宅に仏壇を置き、法要などの時に菩提寺の僧侶を自宅に招いた。今に通じる宗教的な習慣がここに始まった。

 幕府による寺請けの義務化の中で、不受不施派の信徒の中には、他宗派に寺請けしてもらい、内心は不受不施派を信仰する「内信」になる者が出て来た。

 一方、寺請けを拒否し、無籍者になっても不受不施派の信仰を守ろうとした者を法立といった。

 不受不施派では、僧侶を法中と呼び、法中のリーダー格を法灯といった。
 他宗派から布施を受けないという不受不施義からしたら、法中が内信から直接布施を受けることは出来ない。そのため、法立が法中と内信の間を仲介することで、信者のネットワークを強固なものにし、信仰を維持した。

 しかし不受不施派の中で、法立が内信の導師を務めていいのかという導師不導師論争が起こった。

 法立が導師を務めることを認める導師派が日蓮宗不受不施派になり、認めない不導師派が不受不施日蓮講門宗になった。

 先日紹介した妙覚寺日蓮宗不受不施派の祖山であり、この本覚寺不受不施日蓮講門宗の本山である。

 玉松城主松田氏の時代には、日蓮宗は全て不受不施義を守っており、不受不施派という名称もなかった。松田氏は武力を用いて日蓮宗の拡大を果たそうとした。

 思えば、最初は一つだった教えが、時代とともに複数の宗派に分裂していくというのは、いかに人間が観念に生きる動物であるかを示している。

 人間集団の争いの原因は、人の抱く高度な観念の中に潜んでいるように思える。