玉松城跡 前編

 金川の町の北側に聳える臥龍山上に築かれた玉松城(金川城)は、戦国時代に西備前に覇を唱え、最後は宇喜多直家により滅ぼされた松田氏が拠点にした城跡である。

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臥龍山

 松田氏は、元々は相模国に住む御家人だったが、承久三年(1221年)の承久の乱の戦功により、鎌倉幕府から金川の地頭職に任命されたという。

 「松田系譜」によると、元弘三年(1333年)に松田元国が相模から備前に移住してきた。そして備前国矢坂富山に城を築いて拠点にした。

 元国が松田氏の備前初代と呼ばれ、以降この地を拠点にして西備前に勢力を広げていった。

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玉松城跡案内図

 文明四年(1355年)、備前三代松田元泰が、臥龍山上に玉松城を築いた。

 永和二年(1379年)、備前五代松田元方が城内に日蓮宗の寺院、道林寺を建立した。

 文明五年(1473年)、備前八代松田元成が臥龍山全体を城塞化した。元成が居城を富山城から玉松城に移した。

 この松田元成は、松田氏中興の祖と呼ばれている。元成の代に、松田氏は自立した戦国大名となり、備前東部に進出して赤松氏、浦上氏と衝突するようになった。

 玉松城跡に登るには、岡山市役所御津支所前の登山口から登るルートと、妙覚寺西側の登山口から登るルートの二通りがある。私は妙覚寺西側の登山口から登った。

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妙覚寺西側の登山口

 妙覚寺西側に、JR津山線の高架を潜る道があり、そこを北に進むと妙覚寺西側の長屋門前に至る。そこから更に北に登山道が伸びている。

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臥龍山への登山道

 臥龍山は、標高約225メートルの低山で、登るのにはさほど苦労しない。しばらく行くと、道林寺丸跡の石垣が見えてくる。

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道林寺丸跡の石垣

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道林寺丸跡の曲輪

 松田氏は、日蓮宗の熱心な信者で、城内に日蓮宗の寺院・道林寺を建て、また領内の寺院に対して日蓮宗への改宗を迫った。

 松田氏のこの行動が、備前日蓮宗の勢力が拡大した一因になっている。

 臥龍山の麓に日蓮宗不受不施派の祖山妙覚寺があるのも、松田氏と日蓮宗の縁を現している。

 道林寺は廃寺となったが、道林寺のあった場所は道林寺丸という曲輪になったようだ。

 道林寺丸からは、城の西側が展望できる。

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道林寺丸からの展望

 臥龍山の西側には、クレー射撃場があって、そこから銃声がしきりに聞こえる。

 山に登り始める前は、この銃声を聞いて山内で猟でもしているのかと思い、獣に間違われて猟師に撃たれないか心配したが、クレー射撃の音と知って安心した。

 道林寺丸跡から本丸、北の丸方面に進む。

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本丸、北の丸へ続く道

 暫く行くと、本丸と北の丸の分岐点にやってくる。まずは北の丸に向かうことにした。

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本丸と北の丸の分岐点

 玉松城跡には、本丸、二の丸、北の丸という3つの大きな曲輪がある。この城の特徴は、それぞれの曲輪に天守の井戸、杉の木井戸、白水の井戸という3つの井戸が設置されていることである。

 籠城戦をするには、飲料水を確保するための井戸が必須となる。それが曲輪ごとに3つも備えられているのは、松田氏の用意周到さの現れである。

 北の丸に行く途中、曲輪から東に降りていくと白水の井戸があった。

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白水の井戸

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 白水の井戸の水は既に枯れているが、石積みはほぼ完存状態であった。

 ところで、金川城に玉松城という名を付けたのは、室町時代中期に京の第一級の文化人として知られた公卿・三條西実隆である。

 三條西実隆は、文明六年(1474年)から天文五年(1536年)までの間、日記を書き記した。その日記は「実隆公記」と呼ばれているが、今では戦国時代当時の世相を公卿が観察したものとして、一級の史料となっている。

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北の丸跡

 その「実隆公記」の永正六年(1509年)閏八月二十七日の条に、松田氏から城の雅名を所望されたので、麗水、玉松の2つの名を遣わしたと書いてあるそうだ。

 永正九年は、備前九代松田元勝の時代である。元勝はこの2つの名から、松田の松と臥龍山の松に通じる玉松を選んだという。

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北の丸からの北東側の眺望

 伝承では、元勝は三條西家と姻戚関係を結んでいたらしい。三條西実隆は、内大臣まで進んだ人物である。そんな家柄の娘が田舎の豪族の松田家に嫁ぐのはにわかに信じ難いが、「実隆公記」に金川城の命名のことが記されているのは事実である。

 北の丸からは、山の北東側がよく見える。北の丸の北側には、2本の大きな空堀がある。

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空堀

 城の北側から来る敵への備えである。

 戦国時代に台頭した在地領主を国人という。元は鎌倉時代に荘園の治安維持を担った荘官や地頭だったが、室町時代になって勢力を拡大し、郡や国規模で動くようになる国人が出て来た。中には守護大名を圧倒する者も現れた。そういう国人は戦国大名になった。

 国人の中には、戦国時代末期に帰農し、江戸時代に村の庄屋となった家もある。中世に律令制度を解体し、地方を活性化させた国人衆の歴史は興味深い。

 松田氏は、全国的にはほとんど知られていない地元の国人である。日本全国に、こうした国人が築いた城が散在していることだろう。

 これからも、日本各地の国人の痕跡を訪れたいものだ。