真庭市街の南東に標高419メートルの篠向(ささぶき)山が聳えている。
山上に、中世の山城跡である篠向山城跡がある。
篠向山城跡には、車で上がることが出来る。山の西側にある岡山県真庭市大庭の集落から、山上に上がる舗装路に入ることが出来る。
舗装路入り口の獣除けのフェンスを開けて山道に入る。
スイフトスポーツでぎりぎり通れる幅の道である。途中で舗装が途切れるところもある。高級セダンなどでは上がらない方がいい。本来なら軽トラなどで上がるべき道だろう。
急坂を上がっていくと、本丸と二の丸の間の曲輪に駐車できるスペースがある。車で進めるのはここまでである。
篠向山城の築城年代は分かっていない。
「太平記」には、康安元年(1361年)にこの城に籠る飯田氏が、美作に侵攻してきた山名氏に降伏したと書いてあるそうだ。
南北朝時代には、既に山城として機能していたようである。
二の丸には、アンテナ塔が建っているが、曲輪はそのまま残っている。
二の丸跡に上がると、北側には枯草に覆われた土塁の跡がある。
飯田氏の手から山名氏の手に落ちた篠向山城であったが、その後赤松氏の支配するところとなった。
嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱により、赤松氏は幕府軍に攻撃され滅亡した。
その際、山名氏が赤松氏から篠向山城を奪い取った。
文亀年中(1501~1504年)に勝山の高田城主三浦貞連が、山名氏の手から城を攻め落とし、三浦氏の家臣福島、金田氏が城主となった。
天正九年(1581年)に毛利氏が篠向山城を攻略したが、その後天正十二年(1584年)には美作は宇喜多氏の領地になり、宇喜多氏家臣江原親次が最後の城主となった。
慶長の役に参戦した親次は、慶長三年(1598年)に朝鮮の釜山で病死した。
それ以降、城は廃城となった。
本丸跡は、広大な曲輪であった。
今に伝わる篠向山城跡の遺構は、江原氏が城主だった頃に築かれたものである。
それにしても、篠向山城跡の歴史を見ると、激しい争奪戦の連続である。
篠向山城跡の北側には出雲往来が通り、西側は旭川と目木川の合流地点で、旭川沿いに大山往来が通る。
ここは交通の要衝であり、周辺の武将からすれば、是非手に入れたい城だったのだろう。
本丸跡から東に行くと、「最後の砦」と書かれた標柱の立つ曲輪がある。
東の尾根沿いに攻めてきた敵への備えだろう。
本丸跡の南側には、横堀が掘られ、その下に放射状に畝状竪堀が掘られている。
畝状竪堀とは、城に攻め上がってくる敵兵の横移動を防ぐために築かれた竪堀で、竪堀の間が畝状に盛り上がったものを言う。
本丸跡南側の畝状竪堀は、18本あり、最長の竪堀は約70メートルある。
全長約70メートルに及ぶ最長の竪堀を降りていくと、普門寺跡の曲輪に出る。
かつて城跡に建てられた寺院があったのだろうか。
さて、普門寺跡の曲輪から、最長の70メートルの竪堀を登って本丸跡の南側に戻った。
これが急で、足が滑る。もし私が城を攻撃する兵卒だったとしたら、竪堀を登るだけで必死であり、竪堀の横の畝を上り下りして横移動する余裕など、とてもではないがないことが分かった。
上で待ち構える城兵に狙い撃ちされることだろう。
畝状竪堀の防御力を実感することが出来た。
二の丸跡から下に降りると、三の丸跡がある。
三の丸跡は、南北に長い曲輪であった。北側に土塁が残っている。
三の丸跡の西側にも畝状竪堀があるとのことだったが、目視でははっきりと分からなかった。
標柱の下に、わずかに空堀を確認できた。
だが、三の丸西側の斜面も急で、ここを攻め上がるのは難しかろうと思われる。
中世は、日本各地で山城の奪い合いが行われていた。
山城の防御力が、武将たちのその後の運命を決めることもあったのだから、城の縄張りも馬鹿には出来ない。
一つの空堀の存在が、歴史を左右したこともあったろう。