金川の史跡巡りを終えて南下し、次なる目的地である宗忠神社に向かった。
今回紹介する宗忠神社は、当ブログで初めて紹介する新宗教の史跡である。
江戸時代後期に、黒住教、金光教、天理教という3つの教派神道が誕生した。この黒住教の開祖である黒住宗忠を宗忠大明神として祀るのが、宗忠神社である。
宗忠神社は、岡山市北区上中野1丁目にある。
黒住宗忠は、安永九年(1780年)に今村宮の禰宜の家に生まれた。
両親を失った心痛が原因で病に臥していた宗忠は、文化十一年(1814年)の正月に日の出を拝んで復調したという。
宗忠が同じ年の冬至に朝日を拝むと、天照大御神と一体になる「天命直受」という境地に至り、悟りを得た。そして日の出を拝む日拝を最も大切な祈りとする黒住教を立教した。
宗忠は、嘉永三年(1850年)に没したが、安政三年(1856年)に孝明天皇から大明神号が下賜された。
しかし、岡山藩の意向で、宗忠大明神を岡山に祀ることは許可されなかった。文久二年(1862年)に京都神楽岡の吉田神社の社地を借りて宗忠神社が創建された。
明治15年(1882年)に宗忠の教えは黒住講社として公認され、明治18年(1885年)に宗忠の生誕地であるこの地に宗忠神社の社殿が竣工された。
明治32年(1899年)に教団本部殿が新設されたが、教団本部殿は昭和49年に岡山市北区尾上にある神道山に移された。
私は岡山に来るたびに、神道山と書かれた標識を見て、どんな山なのだろうと不思議に思っていたが、黒住教の教団本部がある山だとようやく知った。
黒住教は、当時の朝廷が公認した教えとは言え、新宗教である。宗忠神社の境内に入るとき、教団の方が近寄ってきて勧誘してくるのではないかと心配したが、参拝してみると全くそんなことはなかった。
私以外にも、参拝客は多数いたが、黒住教の信者の方ではなく、普通に神社に参拝に来た参拝客のように見えた。実際に参拝客の大半は、この神社の由来も知らず、立派な社殿に魅かれて参拝に来るのだろう。
確かに明治18年に建てられた社殿は立派である。
拝殿前に来て手を合わせようとしたら、木板に書かれた神拝作法が目についた。通常の神社は、二礼二拍手一礼が作法である。出雲大社は、二礼四拍手一礼が作法である。
宗忠神社は、浅い礼1回、深い礼1回、両手を目の高さに合わせて2拍手、両手を合わせたまま祈る、もう一度2拍手、深い礼1回、浅い礼1回が作法であるそうだ。二礼四拍手二礼ということか。
拝殿の奥には、立派な本殿がある。宗忠大明神を祀る本殿だ。
また境内には、天照大御神と住吉大明神を祀る住吉宮がある。
天照大御神も住吉大明神も、神道の神様である。黒住教も、神道の枠内にある教えなのだろう。
境内には、明治の建物と思しき仲陽館や、武道館の生々館がある。
当時としては相当立派な建物である。明治に入って教えが公認された時の高揚感が伝わってくる。
今回は新宗教に関する史跡を紹介したが、新宗教と言えども時の経過の中を生き残れば、伝統宗教の仲間入りをする。
日本の伝統宗教も、世界の伝統宗教も、誕生した時には新宗教であった。
時と共に教えが人々の習俗の中に溶けて行き、その習俗が文化と言える様式に到達した宗教は、伝統宗教と呼んでもいいのではないか。
考えれば考えるほど、人類の中から宗教が発生した経緯は不思議である。