鷹山城跡の本丸跡の曲輪は、北方向に長く伸びている。
鷹山城跡は、本丸の東側、南側、西側は急斜面で守られている。唯一本丸の北側だけが、尾根でつながっている。さらに鷹山の北側には、山々が連なっている。北側の緩やかな登り路から侵入し、尾根伝いに攻めてこられると、この城は守り難い。
本丸跡の曲輪を北に歩いていくと、堀切があった。
この堀切の向こうには、本丸より少し低い二の丸跡の曲輪がある。もし堀切がなければ、二の丸跡と本丸跡はなだらかにつながる尾根である。
私は鷹山城跡を見学して、初めて堀切の重要性に気付いた。
急斜面を登って本丸に辿り着いたからこそ、なだらかな尾根が山城の最大の弱点と実感出来た。なだらかな尾根沿いを防御するには、尾根を途中で切断して堀切を設けるしかないのだ。
堀切を越えると、二の丸跡の曲輪が続いている。
二の丸跡の曲輪は、これぞ曲輪、と言ってもよいほど真っ平らにされている。
二の丸跡から下を見ると、一段下にも小さな曲輪がある。
二の丸跡を北に進むと、最北端に土塁跡があった。
この土塁は、明らかに北から攻めてくる敵に備えた設備である。
となると、この土塁の向こうには堀切があるなと予測した。土塁を越えてみると、思った通り堀切があった。
堀切の向こうには、二の丸跡より少し低い高さの曲輪がある。三の丸跡だろう。
三の丸跡も、北に伸びた曲輪である。
三の丸の北端に行くと、下に大きめの堀切が掘られている。
しかし三の丸跡から下に降りて見返ると、三の丸跡の切岸が高いから深い堀切に見えただけで、実際はそう深いものではなかった。
三の丸跡の切岸は、そんなに急ではない。ここまで辿り着けば、本丸まで邪魔をするのは、二重の堀切と二の丸北端の土塁だけである。まあ、二の丸、三の丸にはぎっしり兵がいるのだろうが。
帰路に二の丸跡から堀切越しに本丸跡を見ると、確かに切岸が高く聳え立っていて攻めにくそうだ。
本丸と二の丸の落差が最もある場所に堀切を掘って、この切岸の高さを人工的に作ったのだろう。
それでも私がこの城を攻める指揮官だったら、堀切や土塁があるとしても、この城は北から攻める。あの急な切岸を登って本丸に達した経験の後では、そうとしか考えられない。
もし堀切と土塁がなければ、本丸、二の丸、三の丸は連続した緩やかな上り坂の尾根である。
この城跡を見学して、ようやく堀切と土塁の重要性を実感できた。
さて、下山ルートについては、私は無謀にも大手側から下りようと思った。大手側が車を駐車した場所に近いし、登るのは無理でも下りるのは行けるだろうという素人考えからだった。だが下り始めてすぐ後悔した。
もちろん道などはない。45度よりも急な傾斜を下りていくことになった。しかも地面は枯葉で覆われて柔らかい。足が滑れば尻もちをついたまま滑落することになる。
ご覧のように木が沢山生えているため、滑落しても木に掴まるか足をかけると止まるので、落ち続けるということはない。
例えていうなら、枯葉を敷いた滑り台の上を立って下りるようなものだ。
途中上を見上げると、もはや崖である。ここを登るには、ロープでも展張しないと無理だろう。
上の写真は、私が下山した大手側の斜面の角度を写したものである。45度よりは急だろう。
覚えているだけで5回は滑落した。おかげでズボンの尻側がドロドロになってしまった。
何度も言うが、普通の素人の山歩き感覚では、絶対に大手側から登るのは無理である。下りるのもやめておいた方がいい。
さて、何とか無事に麓に下りると、無数の供養塔が建っている場所があった。
鷹山城で合戦が行われたという伝承はないが、麓にこれだけ供養塔があるということは、この城もやはり秀吉に攻撃されて、多数の戦死者を出したのではないか。
この供養塔群のいわれを知りたいものだ。
今回紹介した鷹山城跡は、連郭式の曲輪や、堀切、土塁が残る本格的な山城跡であった。私にとって、城の防御機構の意味を初めて実感できた城跡であった。
ただ登り下りするのが大変であるため、なかなかその魅力が世間に知られていない。
もし登山用の道が整備されれば、地域の観光資源として、もっと注目されることだろう。