後醍醐天皇が歌に詠った佐良山は、現在の笹山だと言われている。
笹山の西麓には、横穴式石室を持つ直径15メートル以下の円墳を主とした、180基以上の古墳群がある。佐良山古墳群と呼ばれている。
その中で、最古の横穴式石室を有する中山一号墳を訪れた。
中山一号墳は、JR佐良山駅東側の集落の最南端にある溜池の裏側にある。地名で言うと、津山市皿になる。
歩いて行くと、二段に築盛された墳丘が見えてくる。
中山一号墳は、6世紀中葉に造られた帆立貝形古墳である。円墳に小さな方形の造り出し部が付けられている。全長は約23メートルである。
中央部に横穴式石室、造り出し部に竪穴式石室がある。
石室の入口にはチェーンが掛けられていて、内部に入ることが出来なかった。
フラッシュを焚いて撮影すると、狭いながら奥行きのある石室であることが分る。
石室内部は、比較的小さな石が積まれている。昭和26年の岡山大学の発掘調査により、ここからは須恵器や土師器、武器類、馬具類が出土した。
この地方を代表する首長が埋葬された墓だったのだろう。
造り出し部には、竪穴式石室が露出しているが、半ば草に覆われている。
小さいながら、丁寧に築かれた古墳と感じた。
中山一号墳から国道53号線に出て南下すると、右手に「殉教五人衆道」と刻んだ石碑が立っている。
この石碑のある交差点から東に入り、途中踏切を越えて左に曲がると、突き当りに佐良山古墳群を構成する古墳群の一つである剣戸古墳群の東塚と西塚がある。どちらも円墳である。
ここは津山市福田になる。
善政で知られる岡山藩だが、幕府の政策を受けて、キリスト教と日蓮宗不受不施派に対しては厳しい弾圧を加えた。
日蓮宗不受不施派は、法華信者以外から布施を受けず、法華信者以外に対して供養もしないという、日蓮の不受不施義を守り続ける宗派である。
不受不施派の寺院に行くと、賽銭箱が設置されていないことに気づく。多宗派から布施を受けないためだろう。
寛文六年(1666年)に岡山藩の不受不施派への弾圧が始まった。備前国佐伯の不受不施派寺院、本久寺の日勢聖人は、美作に潜入したが、寛文九年(1669年)に4人の尼僧と共にこの東塚を断食終焉の地と定め、塚の横穴式石室に入籠して抗議の断食を始めた。
5人は、石室最奥の石に「南無妙法蓮華経」の題目を刻み、断食をしながら読経と唱題を続けた。
近くの説明板を読むと、5人は同日に亡くなったのではなく、寛文九年三月十三日から三月二十六日にかけて一人又一人と亡くなっていったようだ。最初に亡くなったのは、日勢聖人であった。
仲間が倒れるのを見ながら、それでも断食を続け、読経を続けた尼たちの信仰心の不抜さは大したものだ。
ここで息絶えた5人は、福田五人衆と呼ばれ、不受不施派の聖人として崇められている。
東塚は、比丘尼塚とも呼ばれ、不受不施派の聖地になっているようだ。
東塚の隣にある西塚は、東塚と同じような形、大きさの円墳で、同じ方向に向いた横穴式石室を有する。
東塚の石室も西塚の石室も、入口から奥まで高さや幅が同じで、入りやすい石室である。
日蓮宗(法華宗)は、「妙法蓮華経」と言うテキストそのものを信仰するという宗派で、日本の仏教各宗派の中で最も原理主義的だと言える。
その中でも、日蓮の唱えた不受不施義を守る不受不施派は、最も原初的な日蓮の教えを守っているのかも知れない。
キリスト教原理主義者が聖書の無謬性を信じ、イスラム教原理主義者がコーランの無謬性を信じるように、法華信者は妙法蓮華経の無謬性を信じている。
絶対に正しい書物が世の中にあると信ずれば、確かに怖いものはなくなるかも知れない。生きる上での答えが既に用意されてるからだ。
しかし私は、自由な代りに正解がなく、広々として中心も上下左右もなく果てもない、いつまでも疑問が尽きない世界の中で生きていたいと思う。