徳倉城跡

 2月6日に備前方面の旅をした。

 最初の目的地は、岡山市北区御津河内にある徳倉城跡である。徳倉城跡は、標高約232メートルの遠藤山の山頂にある。

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遠藤山

 遠藤山の麓には、天児屋根命を祀る徳蔵神社がある。

 この神社には、天文年間(1532~1555年)に徳倉城主だった宇垣一郎兵衛の供養塔などがある。

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徳蔵神社の鳥居

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参道沿いにある宇垣一郎兵衛の供養塔

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徳蔵神社社殿

 徳蔵神社に手を合わせ、登山の無事を祈った。

    徳蔵神社のすぐ南側から遠藤山への登山道が始まる。気合を入れて登り出した。

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徳倉城跡への登山道

 徳倉城は、「太平記」にも記載がある古城である。「備前秘録」という書物によれば、暦応年間(1338~1342年)には須々木備中守が在城していたそうだ。

 「太平記」には、康安二年(1362年)には、高師秀が在城していたという記述がある。

 戦国時代には松田氏の支城になり、松田氏の家老の宇垣一郎兵衛が城主だった時代があった。先ほどの徳蔵神社の供養塔は、この宇垣一族のものである。

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城の搦め手への道

 松田氏が宇喜多氏に滅ぼされると、宇喜多氏の家臣遠藤河内守が城主になった。

 遠藤河内守は、永禄九年(1566年)に備前に攻め込んだ三村家親を鉄砲で暗殺した功により、宇喜多直家から徳倉城を与えられたという。

 遠藤山の名は、この遠藤氏から来ているようだ。

 登山道を歩いていくと、長大な空堀が見えてくる。

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空堀

 数百メートルに渡って空堀が続いている。今までの城跡巡りでも見たことがない長さだ。

 さて、遠藤山はさほど高くない山である。しばらく登るとすぐ山頂に至った。

 山頂の本丸の周囲は野面積みの石垣で覆われている。

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本丸周囲の石垣

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 本丸跡に上がると、本丸の郭を囲むように石塁が続いている。

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本丸跡の石塁

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 本丸跡には、古い瓦の破片が転がっている。中には軒丸瓦もある。古びのついた、いい瓦だ。

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本丸跡

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本丸跡に散らばる瓦

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 遠藤氏の居城だったころのものだろう。

 本丸跡の中央には、妙見大菩薩を祀る祠があった。

 祠の扉の隙間から、金色に輝く光が見えたので、不思議に思い覗いてみると、金箔の前に黒光りした妙見大菩薩の古い木像が立っていた。

 一瞬本当に神様がいると思った。思わず手を合わせた。

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妙見大菩薩の祠

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祠の前の木札

 祠の前には、嘉永二年(1849年)に奉納された木札が立てかけてあった。こんな山上の小さな祠に奉納された嘉永年間の木札が残っているのも珍しい。

 妙見大菩薩の前には、二の丸の空間が広がっている。

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二の丸の空間

 さてこの二の丸を囲む野面積みの石垣も見事なものだった。

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二の丸の石垣

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 備前でこれだけの石垣の遺構のある山城は珍しい。

 これらの石垣は、恐らく安土桃山時代宇喜多秀家の時代に整備されたものだろう。

 宇喜多氏は、関ケ原の合戦で敗れて改易となった。その際、徳倉城も廃城になったものと思われる。

 それからでも、400年以上の歳月が流れている。

 山城は、住宅地として開発されることも稀なため、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて廃城になった後も、遺構がそのまま残っていることが多い。

 戦国山城は、かつて戦いの時代があったことを、無言の内に伝えてくれる。