備中高松城跡 前編

 鯉喰神社の見学を終え、岡山市北区高松にある国指定史跡・備中高松城跡に赴いた。

 最上稲荷の巨大な鳥居を過ぎてしばらく行くと、史跡公園として整備された備中高松城跡が見えてくる。

備中高松城

 備中高松城跡は、私が史跡巡りで訪れた13番目の日本200名城であり、6番目の続日本100名城である。

 高松城は、備中国から備前国に至る平野の中心にあり、松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)の途中にある要衝に位置する。

 天正十年(1582年)に行われた織田と毛利との対決である中国役で、秀吉が水攻めしたことで有名な城である。

備中高松城の縄張り

 備中高松城は、本丸と二の丸を三の丸と家中屋敷がコの字型に囲む形をしていた。

 城は沼沢地に臨んでいて、城の周りは沼や深田、湿地に囲まれていた。

 水面から比高4メートルという平城で、石垣を築かず土壇だけで構成された土の城だった。

備中高松城の想像図

 言わば沼地という天然の要害に囲まれた城であった。

 天正十年(1582年)、備前美作を支配する宇喜多氏を傘下に収めた織田軍は、羽柴秀吉を大将として、織田軍2万、宇喜多軍1万の計3万の大軍で、毛利氏の支配する備中攻略を開始した。

備中高松城跡の二の丸跡付近

 毛利氏は、備前備中の境に、高松城、宮地山城、冠山城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城という境目七城を築いて織田軍に備えた。日幡城は一昨日の記事で紹介した。

 毛利氏は、この七城の中心となる高松城清水宗治を配した。

 秀吉は、境目七城を次々と攻略したが、沼地の中にある高松城のみは攻めあぐねた。

備中高松城址資料館

 秀吉の軍師だった黒田官兵衛は、逆転の発想で、沼地に囲まれた城を水攻めする策を秀吉に献じた。

 秀吉は、宇喜多氏家臣の千原九衛門勝則を奉行とし、わずか12日間で、城の南から西にかけて、高さ8メートル、長さ3キロメートルの堤を完成させた。

 そして、梅雨時で増水していた足守川の水を堤防内に引き入れ、城を水で囲んだ。

高松城水攻めの図

水攻め中の高松城を見下ろす秀吉の想像図

堤の高さを示すモニュメント

 秀吉は、城の東側にある石井山の上に本陣を置いて、高松城を見下ろした。

高松城跡から眺めた石井山

 水で囲まれた高松城は、外部との連絡を絶たれ、食料を城内に運ぶ術を失った。

 高松城跡は、平城であるため、アップダウンのない平地の公園のような場所である。  

 散策すると、途中備中高松城址資料館があったが、この日は閉館していた。

 駐車場から歩くと、二の丸跡に入るが、そこから北に歩くと蓮池があり、その先に本丸跡がある。

二の丸跡から本丸跡を望む

 元々本丸と二の丸の間には沼があった。昭和57年の岡山県による歴史公園整備のための造成工事で、沼が再現された。

 すると、今まで地下で眠っていた蓮の実から蓮の葉と花が自然に生えてきた。

自然と復元された宗治蓮

 地元の人は、城主清水宗治に因んで、復活した蓮を宗治蓮と呼んでいる。

 本丸は、蓮池よりわずかに高い土壇に過ぎない。こうして見ると、本当に標高の低い城であるのが分かる。

蓮池と本丸跡の土壇

本丸跡から見た二の丸跡

 清水宗治は、秀吉と毛利の和睦の条件として、1人切腹することになった。

 本丸跡には、宗治の首塚がある。

 私は本丸跡に歩いて向かった。