八衢神社の参拝を終え、次なる目的地の白巣城跡に向かう。
白巣山は、標高317メートルの低山だが、山頂は平らになっている。山頂部に、曲輪が連なった山城があるわけだ。
白巣城跡は、私が淡路の史跡巡りで初めて登った本格的山城である。縄張りは南北約350メートル、東西約300メートルで、山城の遺構としては淡路最大級である。
ところで白巣山の山頂付近までは、細いながらも舗装路が整備されていて、車で登ることが出来る。
城跡のすぐ下に駐車場がある。そこまで車で上がった。駐車場の脇に白巣城跡の説明板があった。
山頂付近を削平地にして、土塁や堀切を築いて防備した土の城だ。
白巣城がいつ築かれたのかは詳らかではない。永正十六年(1519年)に淡路国守護細川氏が滅亡し、淡路は阿波の戦国大名三好氏の勢力圏に入った。
淡路では、地元の国人衆が台頭するようになった。淡路国人衆の一つ安宅氏が、白巣城を築いて城主となったと言われている。
駐車場から急な階段を上がると、すぐに堀切の前に出る。
堀切は、人工的に掘られた空堀で、敵の進軍を妨害するための設備だ。
堀切から西に進むと、本丸と西の丸方面に至る。
本丸と西の丸の間には、ベンチを置いた広い曲輪の跡がある。
この曲輪には、かつての城の建物の礎石と思われる石や、瓦などが散らばっていた。
ここから西の丸に向かう。
西の丸には、「白巣城跡」と刻まれた石碑や、白巣城最後の城主安宅冬秀の石碑が建っている。
天正九年(1581年)一月、羽柴秀吉率いる織田軍が淡路に侵攻してきた。安宅氏を除く淡路国人衆は、すぐさま降伏し、淡路島全域は、3日で織田氏に服属した。
安宅冬秀は降伏せず、要害険阻な白巣城に籠城して、秀吉軍を迎え撃った。
秀吉軍が城に登れぬように、城の登り道に竹の皮を敷くなど奇策を用いたが、衆寡敵せず、城は焼き打ちされ、冬秀は火中に身を投じたという。
西の丸からは、遠く播磨灘を望むことが出来る。
西の丸から本丸に向かう。
本丸は小高い丘の上にある。
本丸上には、白巣山大神という神様が祀られているが、祠が傾いていて気の毒であった。
祠の前の神具が倒れたり落ちたりしていたので、元に戻して手を合わせた。
本丸から東に行くと、馬を繋いでいたと思われる馬繋場がある。
ここでは、曲輪の周囲を土塁が囲んでいる。
馬繋場から更に東に進むと、米倉の跡がある。
米倉の跡は、お饅頭のような半球形に形成された切岸になっている。鼠などが倉に登ってこられないように、こんな形にしたのだろうか。
米倉跡から東に進むと、城跡の最東端にある東の丸に至る。
東の丸の東端には低い土塁があり、そこから淡路島の北半分を眺めることが出来た。
視界の中央の陸地の右の海は大阪湾で、左の海は播磨灘である。ここは確かに淡路を一望できる要衝の地である。
信長は、淡路征服後は、土佐の長曾我部元親が席捲しつつあった四国征伐を見据えていた。腹心の秀吉を使って、着々と西日本制圧の布石を打っていたのだ。
白巣城攻防戦は、淡路の戦国史上で、最大の攻城戦だったことだろう。この城で多くの将兵が倒れたことだろう。
戦国の城跡に来ると、乱世の息吹をふと感じることがある。