二の丸から本丸に近づく。天守台の上が、この山で最も高い場所である。
本丸の西側から天守台に上がることが出来る。
天守台に登り四囲を見渡すと、まず目につくのは、南二の丸と南千畳の全景である。
このアングルから眺めた南二の丸、南千畳は、竹田城跡の観光写真などでよく見かける。
北西を見下ろすと、北近畿豊岡自動車道のアーチ橋が見える。
北近畿豊岡自動車道は、丹波から豊岡にかけて通る無料の自動車専用道路である。この道路のおかげで、昔と比べ豊岡への時間がかなり短縮された。
今後の但馬の旅で再々利用することになるだろう。
北を眺めれば、今まで歩いてきた二の丸、三の丸が目に入る。
こうして見ると、北千畳は本丸よりかなり下にあるのが分る。
天守台から下りて、本丸の西側を見ると、今は立入禁止になっている曲輪の一つ、花屋敷がある。
本丸の西側を回って、南二の丸に進む。本丸の西側は、急傾斜の石垣で覆われている。
こちらから本丸を攻撃するのは無理だろう。本丸を攻め落とすには、矢張り3つの曲輪のどれかを攻略する必要がある。
本丸をぐるりと回って、南二の丸に進む。
南二の丸から本丸を見返ると、重層的な石垣が目に映える。
昨日の記事で、竹田城跡は建物が無い方がいいと書いたが、一方で、建物が建っていたころの竹田城を一度見てみたいという気持ちもある。
南二の丸を出ると、広い曲輪の南千畳に至る。
それにしても感心するのは、竹田城跡の石垣に使用されている石が、形は違えども材質や色合いが統一されていることである。
この石をどこから調達してきたのだろう。そしてこれだけの石を山上まで運んだ労力は尋常ではなかったろう。
南千畳は、芝生に覆われた広々とした空間である。
南千畳の南端からは、生野方面(播磨方面)からやって来る敵の動きを手に取るように把握することが出来る。
南千畳から本丸方面を振り返ると、南二の丸から本丸、二の丸に続く石垣群が視野に入る。
南千畳には、一本の赤松が独立して生えている。そう古い木ではないだろうが、これからも竹田城跡を見守っていく木だろう。
とりあえず、この木の今の姿を写真に収め、記録に留めることにした。
城を巡ってつくづく思うのは、城は生きている、ということである。どんな建造物も、その建造物なりの建てられた目的があって、その目的を表す形をしている。
城は、敵軍からの防御のために築かれたものである。建物がなくなっても、石垣や曲輪や堀切や竪堀や虎口や切岸などの防御機構が残っていれば、その城の防御に関する設計思想を窺うことが出来る。
時代が下り、世の有様が変わっても、城は防御のための有機的な統一体として地上に残っている。
廃城であっても、城好きが見れば、その城の設計思想が昔のまま現在に生き残っていると感じるだろう。
城は生きている、と思う。