湊川神社 前編

 まだオミクロン株が猛威を振るい始める前の昨年12月26日に、神戸の史跡巡りを行った。

 最初に訪れたのは、神戸市中央区多聞通3丁目に鎮座する湊川神社である。

 ここは、神戸市内では生田神社に次ぐ初詣客数を誇っており、神戸市を代表する神社の一つである。

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湊川神社

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湊川神社神門

 湊川神社の祭神は、南北朝時代南朝側の武将・楠木正成卿(大楠公)とその子・楠木正行卿(まさつら、小楠公)、湊川の合戦で殉節した楠木正季卿(正成の弟)以下楠木一族十六柱、菊池武吉卿である。

 湊川神社の創建は新しく、明治5年である。明治になってから、南朝の忠臣たちを祀った別格官幣社が全国に出来たが、湊川神社は最初に建てられた別格官幣社である。

 楠木正成の殉節地、墓所のあるこの地に神社は創建された。

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楠木正成(大楠公

 楠木正成は、永仁二年(1294年)に河内国金剛山の麓、赤坂村で生まれた。幼名を多聞と言った。湊川神社のある多聞通という地名は、正成の幼名に由来するのだろう。

 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が発した鎌倉幕府打倒の命を受け、正成は赤坂城で挙兵した。

 正成の立て籠もる千早城、赤坂城は幕府の大軍に包囲されたが、智謀に優れた正成は、様々な奇策を用いて幕府軍を翻弄し、ついに城を守り通した。

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楠公墓所

 正成の勇敢な戦いぶりに力を得て、関東では新田義貞が、播磨では赤松円心が、九州では菊池武時が鎌倉幕府討滅の兵を挙げた。

 隠岐に流されていた後醍醐天皇は秘かに島を脱出し、伯耆名和長年に出迎えられ、京に向かった。

 幕府側だった足利尊氏後醍醐天皇側に寝返り、討幕軍が鎌倉に殺到した。鎌倉幕府はついに滅亡した。

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楠公墓所に並ぶ灯籠

 幕府滅亡後、建武の中興と言われた後醍醐天皇による親政が行われたが、それに不服を感じた足利尊氏天皇に反旗を翻した。

 京で敗れた尊氏は一度九州に落ちるが、そこで勢力を盛り返し、百万の大軍を率いて上洛の途についた。

 正成は、今の大阪府三島郡島本町桜井にあった桜井駅で、子の正行に後事を託して訣別し(桜井駅の別れ)、湊川の地で足利尊氏の大軍を迎え撃った。これが湊川の合戦である。

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史蹟楠木正成墓碑の碑

 しかし衆寡敵せず、正成は尊氏勢に敗れ、延元元年(1336年)五月二十五日、弟正季ら一族郎党と共に、七生滅賊(七たび生まれ変わって天皇に反逆する賊を討つこと)を誓って自決した。

 楠木正成が自決した場所は、湊川神社本殿の西側にあるが、大楠公殉節地として、注連縄で囲まれて保存されている。

 正成を破って上洛した尊氏は、後醍醐天皇の出自だった大覚院統とは別の、持明院統天皇を建てた。これが北朝である。敗れた後醍醐天皇は吉野に退いて北朝に対抗した。これが南朝である。

 今の皇室は、北朝の系統である。

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楠公墓所

 楠木正成が葬られたとされる塚は、その後も正成を慕う地元民が大楠公墓所として大事に守って来た。秀吉による太閤検地の際も、免租地とされた。

 慶安三年(1650年)、墓地を領する尼崎藩主青山幸利(よしとし)が、塚の印として梅と松を植え、石造五輪塔を建立した。

 元禄五年(1692年)、水戸藩徳川光圀が、家臣・佐々宗淳(むねきよ)を大楠公墓所に派遣し、光圀が謹書した「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字を刻んだ墓碑を建てた。

 墓碑は、亀趺(きふ)の上に建っている。

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楠公墓碑

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 光圀は、明暦三年(1657年)から、皇室を中心とした史書大日本史」を編纂した。  

 「大日本史」は、南朝の武将北畠親房が著した「神皇正統記」の影響を受けており、南朝正統論を唱えている。

 「大日本史」を編纂した水戸藩では、尊王思想を唱える水戸学が発達した。幕末の尊王攘夷運動の理論的支柱となったのは、この水戸学である。その思想は、その後大日本帝国に受け継がれ、日本人全体を覆うことになる。

 光圀は、南朝に死ぬまで尽くした楠木正成を慕い、その功績を不朽のものとするため、この墓碑を建てたのだろう。

 大楠公墓碑の傍には、昭和30年に彫刻家平櫛田中が造った徳川光圀像が据えられている。

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徳川光圀

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 墓碑の裏には、明の遺臣で、光圀に仕えた儒学者朱舜水が書いた「楠公画賛」の文が刻まれている。

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楠公画賛」の拓本

 この文は、狩野探幽が描いた「桜井駅訣別図」の画賛として、朱舜水が書いたものである。楠木正成の誠忠を現す名文とされている。

 朱舜水は、明滅亡後に日本に亡命してきた文人で、楠木正成の伝記を百読して熱烈な楠公崇拝者となり、この文を執筆したという。

 大楠公墓所付近は、江戸時代には尼崎藩領だった。墓所に奉納された灯籠には、歴代尼崎藩主の名が刻まれている。

 最も古い灯籠は、宝暦元年(1751年)に尼崎藩主松平忠名(ただあきら)が奉納したものである。

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宝暦元年に松平忠名が奉納した灯籠

 奉納された灯籠は多数あり、尼崎藩主たちが楠木正成を慕っていたのがよく分かる。

 幕末には、尊王思想に目覚めた志士たちが、大楠公墓所を訪れ、墓前に額づき、墓碑に刻まれた朱舜水の名文を目にし、国事に奔走する決意を新たにしたという。

 墓所を訪れた志士には、高杉晋作真木保臣吉田松陰西郷隆盛伊藤博文坂本龍馬木戸孝允大久保利通三条実美などがいる。

 吉田松陰は、「楠公画賛」の拓本を松下村塾に掲げて、志士の教育に当たったという。

 戦前には、楠木正成は忠臣として称えられ、桜井駅の別れの場面も国史の授業で必ず教えられていた。

 日本は、皇祖神天照大神の子孫である万世一系天皇が統治すべき国であり、天皇に忠義を尽くすのが日本人の務めで、皇室に反逆する者は討つべき逆臣であるという、戦前の皇国史観からすれば、楠木正成は日本人が第一に尊敬すべき英雄であった。

 戦後の教育では、楠木正成が英雄として教えられることはなくなり、正成のことを知らない日本人も多くなったが、正成の行動が、幕末日本の変革の原動力となり、戦時にあたって日本人の戦意を高揚させていたのは歴史上の事実である。

 いずれにしろ、楠木正成の生き方には、日本人の心の奥底にある何者かを突き動かす力があるように思える。