湊川神社 後編

 いよいよ湊川神社の社殿に参拝する。

 湊川神社は、昭和20年の神戸大空襲により、創建以来の社殿が焼失した。

 昭和27年10月24日に復興新築されたのが今の社殿である。

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拝殿

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 建物は鉄筋コンクリート製で、銅板葺の屋根を持つ。鉄筋コンクリート製の寺社を見ると、少し残念な気持ちになるが、それでもこの社殿は建築からもうすぐ70年になる。

 どんなものでも、100年経てば宝物になるという言葉を聞いたことがある。湊川神社の現社殿も、100年経ったころには、世の中からそれなりの価値を認められるだろうか。

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拝殿前の青銅の狛犬

 拝殿に入ると、天井画に圧倒される。

 兵庫県相生市出身の南画家・福田眉仙の「大青龍」の図を中心に、当時の著名画家たちが奉納した絵がモザイク状に並んでいる。

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拝殿の天井画

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 すぐ上の写真の中央やや左下にある4枚の版画は、小さくて見えにくいが、棟方志功ニーチェの「ツァラトストラかく語りき」に触発されて制作した、「運命」という作品である。

 また、拝殿の左右には、楠公が掲げたとされる「非理法権天」の旗と、棟方志功が描いた獅子・狛犬の画がある。獅子・狛犬の画には、徳富蘇峰が「降魔」「伏邪」という賛を書いている。

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「非理法権天」の旗と棟方志功の獅子図

 「非理法権天」とは、近世日本の法概念で、無理(非)よりも道理が優先し、道理よりも法式が優先し、法式よりも権威が優先し、権威よりも天が優先するという考え方であるらしい。

 この「天」を天皇と解し、天皇を第一に考えた楠木正成が、「非理法権天」を旗印にしていたという伝説が、江戸時代になって生まれた。

 どうやら史実では、楠木正成はこの旗は掲げていなかったようだ。

 また、旗の上にある紋章は、楠木正成が用いた菊水紋である。菊水紋は、かつては天皇への忠義心の象徴とされた。

 大東亜戦争末期の沖縄戦で、沖縄に接近する米艦艇への陸海軍の大規模な特攻作戦が行われたが、その作戦名が「菊水作戦」と呼ばれていた。その犠牲は、甚大であった。

 拝殿からは、本殿の三つの扉を拝むことが出来る。

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本殿の扉

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 中央の扉の奥には主祭神の大楠公が、向かって右の扉の奥には大楠公夫人が、向かって左の扉の奥には小楠公楠木正季卿以下一族十六柱並びに菊池武吉卿が祀られている。

 拝殿の後ろの本殿を拝観した。

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本殿

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 拝殿も本殿も、汚れ一つないほど美しく保たれている。神社に奉職する神職たちの、祭神への尊崇の念が如何に高いかが分かる。
 さて、本殿の西側には、史蹟楠木正成戦歿地がある。

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史蹟楠木正成戦歿地

 足利尊氏勢に敗退した正成と楠木一族が、「七生滅賊」を誓ってお互い刺し違え、自決した場所である。 

 湊川神社では、御殉節地と呼んでいる。

 御殉節地は、門扉で閉ざされているが、社務所に依頼すれば神職同伴で見学することが出来る。実は私がここを見学するのは、これで三度目である。

 私が見学を依頼すると、若い男性神職が来て下さった。

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史蹟楠木正成戦歿地の説明板

 門扉を通った奥に、雑木林があり、その一角が注連縄で囲まれている。そこが大楠公の殉節地である。

 若い神職は、流暢に説明をして下さった。

「あちらの注連縄で囲まれた場所が、楠公さんが殉節された場所です。楠公さんは、天皇第一の世を護ろうとされた方です。戊辰戦争以降に、天皇の側に立って殉節された方々は、靖国神社と各地の護国神社に祀られていますが、それ以前に天皇の側に立って殉節された方々は、別格官幣社に祀られています。湊川神社別格官幣社です」

 私は思わず神職の方をまじまじと見た。現代の若い男性が、このような言葉を発するのが、少し意外だったからである。

楠公さんは、七たび生まれ変わっても天皇に敵する賊を討つという意味の『七生滅賊』を唱えて殉節されましたが、戦争中には、『七生報国』という、七たび生まれ変わってでも国のために報いるという意味の言葉に直されて使われるようになりました」

 私は、昭和45年11月25日に、三島由紀夫東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で例の事件を起こした時、彼が「七生報国」と書いた日の丸鉢巻を締めていたのを思った。

 私は、高校時代に旧「三島由紀夫全集」全36巻を全て読み、その後も30代までは三島の著作を繰り返し読んだが、未だに彼の「七生報国」が本気だったのかポーズだったのか分からない。ただ疑問なのは、人がポーズのために死ねるだろうか、ということである。

 もし三島が本気だったとしたら、それが正しかったかどうかは別として、楠公の精神が、戦後の昭和の世でも発動したことになる。

「今では楠公さんのことを学校で教えることも少なくなり、寂しい限りですが、私たちは今でも大切にお祀りしています」

 私は、神職の説明を聴き終わると、殉節地に向かって手を合わせた。

 どんな人間でも命は惜しいもので、それは恥ずべきことでも何でもないが、一方で人間は、個の命を超える大義に身を挺した人の行為に大きな感銘を覚えることがある。

 歴史を一貫する大義があれば、人はそれに身を挺することで、個の命を超えて大義と共に生きることが出来る。永遠の命を得るようなものだ。

 もちろん大義は、時代や民族や文化や宗教によって異なる。正解はないものだ。

 ただ言えるのは、人は、自分という個の命を超える何かを、追い求め続ける生き物だということである。

 これも、人の命に限りがあるからこそ生まれる気持ちだろう。