真福寺から南下し、津山市下田邑にある流通第二公園に向かった。
この公園の南側の丘の上に、田邑丸山古墳群があるとのことであった。
丘に入る道があったので、登ってみた。
「岡山県の歴史散歩」には、古墳公園として整備されていると書いていたが、丘の中に入ってみても古墳を示す案内板も何もなく、古墳の形状もほとんど判別できなかった。
4世紀後半から5世紀前半にかけて築造された古墳が9基あるとのことだったが、盛り上がった円墳のようなものがかろうじて分かった。
蚊が多く飛び交っており、早々に退散した。
ここから南下し、津山市神戸(じんご)にある作楽(さくら)神社を訪れた。
作楽神社が今建つ場所は、かつての院庄館跡でもある。この神戸一帯は、後鳥羽上皇(後鳥羽院)の荘園だったため、院庄と呼ばれていた。
鎌倉時代になって、守護の館がこの地に置かれた。鎌倉時代には、北条氏一門が守護として着任した。院庄館は、戦国時代まで守護所として機能していたようだ。
院庄館跡は、国指定史跡となっている。
この院庄館は、後醍醐天皇が北条高時により隠岐に流された時に立ち寄って宿泊した場所である。
南朝の忠臣の一人とされる児島高徳が、後醍醐天皇を慕って院庄館に忍び込み、桜の幹に十字の詩と呼ばれる漢詩を刻んで天皇への忠誠心を現したとされている。
この話は、「太平記」巻四の「備後三郎高徳が事 付けたり呉越軍の事」という章に書かれている。
作楽神社は、明治2年になって、後醍醐天皇と児島高徳の所縁の地であるこの場所に建てられた神社である。
作楽神社の周囲には、壕が巡らされている。
この壕は、鎌倉時代から院庄館の壕として機能し続けたものだろう。
児島高徳は、備前出身の武士で、後醍醐天皇への忠義の心厚く、天皇を奉じて幕府に対して立ち上がった反乱軍に加わった。
反乱軍が幕府に敗れ、天皇が隠岐に流されることになった際、天皇を幕府一行の手から奪還するため、通過地点と目された播磨ー備前国境の船坂峠で待ち構えた。
しかし天皇一行が姫路の今宿から北上し、美作に向かったという情報を得たため、今度は播磨ー美作国境の杉坂峠で待ち構えた。
高徳が杉坂峠に辿り着いた時は、天皇は既に峠を通過し、院庄館に向かっていた。
天皇奪還を諦めた高徳は、夜陰に乗じて館に忍び込み、桜樹に、
天莫空勾践 時非無范蠡
という十字の詩を書きつけた。
読み下すと、「天勾践(こうせん)を空しくすること莫(なか)れ。時に范蠡(はんれい)無きにしも非ず」となる。
大意は、「天よ勾践を見殺しにしたもうな。いずれは忠臣范蠡の現れんものを」というものである。
勾践は、中国春秋時代の越の国の王である。越は宿命のライバルである隣国呉と昔から戦に明け暮れていた。
勾践は、父祖の敵呉を滅ぼすため、家臣范蠡の「今戦えば必ず敗れる」という諫言を聴かずに呉に攻め込んだが、会稽山の戦に敗れ、呉王夫差(ふさ)に囚われた。
勾践は、入獄したが、夫差の病を直すきっかけを作ったことで許され、出獄して越に戻ることが出来た。
呉王夫差が女に目がないことを知った范蠡は、勾践の妻で絶世の美女・西施を呉に差し出すことを勾践に進言する。夫差が西施に目がくらみ、政事を放置することを見越しての事である。
勾践は、呉を滅ぼすため范蠡の進言を取り入れ、泣く泣く西施を呉に差し出した。
范蠡の読み通り、西施の美貌に溺れた夫差は、政事を蔑ろにし、呉の国は乱れた。それだけでなく、夫差は自分の行いを諫めた家臣伍子胥(ごししょ)を処刑した。伍子胥は呉の賢人として著名で、范蠡は伍子胥がいる限り呉を滅ぼすことはできないと踏んでいた。
伍子胥がいなくなり、チャンスが到来したと見た范蠡は、20万の大軍を率いて呉に攻め込んだ。そして西施を取り返し、夫差を捕えてその首を刎ねた。
院庄館の警固の武士が、朝になって桜に刻まれた十字の詩を見つけ、後醍醐天皇に上聞した。
警固の武士は詩の意味を解しなかったが、後醍醐天皇は意味を理解し、にこやかに笑ったという。
明治に入って、南朝正統論を唱えた水戸学を取り入れた明治政府により、南朝に忠誠を誓った武将を顕彰する事業が陸続と続いた。
この天皇に忠義を尽くすことが精神の最高の発動であるとする考え方は、極限まで進むと天皇のために命を捧げることが至上の価値のある行為であるという道徳観に達した。
大日本帝国は、この道徳観を軸にして組み立てられた国家であった。
私はこの思想は本来の日本人の精神生活に根差したものではないと考えている。
日本人に根付いた思想なら、戦後になって自由に自分の人生観を選べるようになった多くの日本人の中にもこの思想は残った筈である。それが残らなかったということは、この思想は多くの日本人にとっては不自然な思想だったということになるだろう。
かと言って、長い日本の歴史の中で、この思想のために命を捧げた人は数多くいる。過去にこの列島で暮らした全ての日本人の生きた事実を尊重するという当ブログの主旨からして、この思想を価値がないものとして唾棄することも出来ない。
それならば、古今を貫いて日本人に根付いた生き方とは何であろうか。このテーマは重いが、いつか私なりの考えを書かせて頂く時があるだろう。