二上山両山寺 前編

 唐臼墳墓群から、山間の道を行き、岡山県久米郡美咲町両山寺にある真言宗の寺院、二上山両山寺を訪れた。

 両山寺は、東峰の弥山(みせん)、西峰の城山という2つの頂を持つ二上山の中で、弥山中腹にある寺院である。

 創建は和銅七年(714年)で、第43代元明天皇の御宇に、泰澄法師がこの地を訪れ、観音菩薩霊夢を見たために開創した霊刹であるとされる。

 山門の前に五智公園という公園があり、そこに密教金剛界曼荼羅の中心に描かれる五智如来の石像が安置されている。

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五智如来坐像

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 両山寺は、今では高野山真言宗の別格本山になっているが、かつては天台、真言の二宗兼学の道場として山内に28の僧坊を有していた。いつしか天台が衰え、真言一宗の寺院となった。

 中世の両山寺は、大伽藍を持ち、境内に五重塔もあったらしいが、永禄八年(1565年)の毛利氏と尼子氏の間の兵火により焼亡した。

 今五智如来坐像が置かれている場所は、かつて五重塔が建っていた場所と伝えられる。

 五智如来坐像は、かつて五重塔内に祀られていたものだという。銘などは刻まれていないので、正確な制作年代は分らないが、様式から室町時代後期の作と言われている。大理石製の像で、岡山県指定重要文化財である。

 密教には、この世界を現す図像として、胎蔵曼荼羅金剛界曼荼羅の2種の曼荼羅がある。胎蔵は理(存在)の世界、金剛界は智の世界を現す。

 五智如来は、金剛界における仏の5つの智慧、法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智を具体化した如来を指す。

 中心にある仏像は、法界体性(ほっかいたいしょう)智を現す金剛界大日如来坐像である。

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大日如来坐像

 大日如来は、密教で宇宙そのもの(法身)とされる仏である。曼荼羅では中心に描かれ、その周辺に描かれる如来、菩薩は全て大日如来の要素の一部とされている。

 五智如来が象徴する智慧とは、一般的な聡明さや賢明さを指すものではなさそうだ。悟りを開いたものに見えてくる智慧なので、私にはちょっと理解できない。

 大日如来が象徴する法界体性智は、他の四智を総合した智慧を指すそうだ。

 曼荼羅では大日如来の東西南北にそれぞれ阿閦 (あしゅく)如来阿弥陀如来 ・宝生(ほうしょう)如来不空成就如来が配置されるが、この五智如来坐像では、それぞれの如来が、それぞれが住する方角を向いている。

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阿弥陀如来

 西方を向く阿弥陀如来は、妙観察(みょうかんざつ)智を象徴する。本来は一体である世界を観察して分別していく智慧である。

 人間が物事を認識し、差別して見る意識を転じると生まれる智慧だという。

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宝生如来

 南方を向く宝生如来が象徴する平等性(びょうどうしょう)智は、現象界に存在する千差万別の事物を、平等一体のものとして見る智慧である。人間の自我に執着する意識を転じると生まれる智慧である。

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阿閦如来

 東方を向く阿閦如来が象徴する大円鏡(だいえんきょう)智は、全ての事象を鏡のように分け隔てなく映し出す智慧である。人間の深層に蓄えられた意識が転じてこの智慧になるという。

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不空成就如来

 北方を向く不空成就如来が象徴する成所作(じょうしょさ)智は、一切の事物の活動の元になる智である。人間の眼耳鼻舌身(がんにびぜつしん)という五感に基づく意識が転じて出来た智慧だという。

 五智とは、人間の無明(執着から生まれる根源的無知)で曇った通常の意識から、無明を除いた時に現れる智慧である。

 無明というのは、人間の生存本能から出てくる欲望のことだと思うが、密教では、この自分を生存させようという欲を無くした時に、宇宙に偏在する本来の智慧が心の奥底から湧き上がってくると説いている。

 曇った鏡を磨くと本来の輝きを取り戻してありのままに世界を映し出すように、人の心を修行を通して磨くと、奥底にあった本来の智慧が輝き出るということだろう。

 人間の生存本能を無くすというのは、かなり無理のある考えだと思うが、考えてみれば宇宙は人間の生存本能と関係なく動いているので、もし真理と言うものがあるとすれば、人間の生存本能と関係のないところにあるのだろう。

 五智の面白いところは、どれも人の無明の意識を転じたら現れるところである。煩悩即菩提という、煩悩があるからこそ、それがそのまま悟りの機縁になるという考え方だ。凡夫も実は仏の要素を持っているということか。

 さて、分かったようで分からない話になってしまったが、五智公園の北側には両山寺の山門がある。

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山門

 山門には梵鐘が掛けられているので、鐘楼を兼ねている。門の左右には、金網の向こうに仁王像が安置されている。

 金網越しなので、綺麗に像を写せなかったが、なかなか迫力ある仁王像であった。

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吽形像

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阿形王

 門を潜ると、右手に大きなアカガシがあった。

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両山寺のアカガシ

 強靭な生命力を感じさせる樹木だった。

 仏教の考え方で不思議なのは、人間の生存本能を無くしたら本来の仏性に目覚めるというところである。

 一見すると生命軽視の考えのようにも思えるが、そうして目覚めた仏性から、どうして全ての事象に慈愛を覚える慈悲の心が湧き出てくるのか、なかなか理解できない。白から黒が生まれるようなものだからだ。

 これは、悟りを開かないと理解できないのかも知れない。史跡巡りは修行ではないので、無理だとは思うが、史跡巡りを続ける内に、この疑問を氷解させる何らかのヒントが見つかるだろうか。