末代山温泉寺 その3

 麓の薬師堂から石段を上がって、大師山の中腹に至る。

 そこには、本堂の大悲殿や本坊、多宝塔、温泉寺宝物館などの寺の主要な建物がある。

 今日は、本堂の解体修理に伴い、寺が所蔵する仏像、仏画、古文書等を収蔵展示するために昭和46年に建てられた温泉寺宝物館(城崎美術館)を紹介する。

温泉寺宝物館

 温泉寺宝物館では、通常の拝観料にプラスして、500円の特別拝観料を支払えば、展示品の写真撮影や模写が許可される。

 もちろん私は特別拝観料を払った。

 館内には、多数の仏像や仏画が所蔵されている。天平十年(738年)の創建から、今まで一度も火災に遭っていないためか、古くからのものが多数残っている。

 今日の記事では、それらの宝物のうち、平安時代鎌倉時代のものを紹介しようと思う。

薬師如来坐像貞観時代)

 館内で最も古い仏像は、平安時代前期の貞観年間(859~877年)に制作された薬師如来坐像である。

 弘法大師空海真言密教を日本に弘めた弘仁年間(810~824年)よりは後の時代である。

 真言宗の影響を受けた天台宗が、入唐して密教を学んだ円仁、円珍の下で密教化したのが貞観年間である。この時代の仏像は、唐の様式の影響を受けている。

 神仏習合は、この時代に進んだ。

 この薬師如来坐像は、その当時から麓の薬師堂の本尊だったものだろう。城崎温泉の浴客を守る本尊であった。今ではこの館で保管されている。

 藤原家が関白の位を独占して権勢を振るった平安時代中期の藤原時代に、温泉寺は最盛期を迎える。

阿弥陀如来立像(藤原時代)

 藤原時代には、定朝(じょうちょう)様といって、仏師定朝が始めた和様の仏像が主流になった。

 肩がなだらかで、全体的に円みを帯びた姿が特徴である。

 このころから念仏の教えが勃興してきて、西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来の像が多数作られるようになった。

地蔵菩薩立像(藤原時代)

 また当時は、釈迦入滅の1500年後から、仏教が衰退する末法の世に入るという風説が流れ、貴族たちは不安を抱えていた。

 当時は永承七年(1052年)から末法の世が始まると言われていた。

 仏教では、釈迦入滅から56億7千万年後に弥勒菩薩がこの世に現れ、人々を救うとされているが、釈迦と弥勒菩薩の間は無仏時代と言われている。

 無仏時代に仏教を守ることを釈迦から頼まれたのが、地蔵菩薩である。

 地蔵菩薩は、昨日も今日も明日も、道端に立って我々を見守っている。

毘沙門天立像(藤原時代)

 仏教では、仏を如来、菩薩、明王、天の4種類に分けているが、天部は仏教を守護する神様である。末尾に天がつくのは、天部の神様である。

 毘沙門天は、仏教を守る四天王の一人で、別名多聞天と呼ばれている。右手に槍を持ち、左手に経典を収めた宝塔を持つ。足下に悪鬼を踏みつけている。

 毘沙門天は、四天王の中で最も力を持っており、上杉謙信が信仰していたことで有名である。

吉祥天立像(藤原時代)

 吉祥天も天部の神様で、毘沙門天の妻あるいは妹とされ、奈良時代から平安時代には日本では盛んに信仰され、福神とされた。

 天部の神々は、ほとんどがインド発祥の神様である。インド由来の神々と日本の神々が同居する神仏習合の思想は、おそらく日本の風土が根底にあって初めて成り立ったものだろう。

 例えば天部の神様である弁才天は、日本の神様である市杵嶋姫(いちきしまひめ)命と習合された。双方水の神様であり、神社や寺の境内の池中に祀られていることが多い。

 明治の神仏分離後、両者は分けて信仰されることになったが、今でも両者とも池中などの水辺に祀られていることに変わりはない。

 そうすると、重要なのは神名ではなくて、水そのものへの信仰心ということになりはすまいか。

 神名のない自然への崇拝が先にあって、その後に日本由来、インド由来、中国由来に関わらずその自然物に神名が仮託される。それが日本の信仰の形ではないか。

 表面上の神名が変わっても、自然崇拝は揺るがない。そう考えれば、日本の風土がある限り、日本文化は不滅なのである。

 自然を崇拝しない砂漠の国では、そう簡単に異教の神々が合体しないだろう。神仏習合は、日本人の自然崇拝が、外来の仏教とも習合したことを現しているのではないか。

破損した仏像群(藤原時代)

 館内には、破損した木造の仏像群が集めて展示してあった。

 これらの仏像は、明治の廃仏毀釈に際して破壊された仏像を集めたものとも、かつて温泉寺六坊に祀られていたものを、六坊廃絶に際して集めたものとも言われている。

 明治の廃仏毀釈神仏分離を経て、日本は仏教を排した神道と江戸時代の国学者が唱えた史観を国の中心に据えた。

 明治維新から昭和20年の終戦まで、政府によりそれが日本の国体として国民に教育された。

 日本の右翼がシンパシーを感じるのは、この大日本帝国時代の国体といわれるものである。

 かつて三島由紀夫を愛読していた私も、そういう国体観をよしとしていた。

面(鎌倉時代) 宮中の節分の鬼払いの儀式で使われた

 だが史跡巡りを続け、史跡の現場をこの目で見て、日本の歴史や信仰について自分なりに考える内に、大日本帝国時代の国体は、本当の「日本」ではなかったのではないかと考えるようになった。

 それが本当の日本なら、アメリカの占領を経ても、独立後すぐに民衆の中から自然に復活した筈である。いかにGHQの洗脳を経ても、である。

 国体が自然に復活しなかったということは、それは元々日本の民衆に根差した伝統ではなかったということになる。

温泉寺の鎮守様の神像(鎌倉時代

 私は、今では明治の神仏分離以前の神仏習合とその土台の自然崇拝こそが、日本の伝統と考えている。これは、今後日本に外国人移民が増えても揺るがないものである。

 そして今や、神仏習合は、誰からも強制されず、「自然」と復興しつつある。

胎蔵界大日如来坐像(鎌倉時代

 館には胎蔵界大日如来坐像と金剛界大日如来坐像があった。

 胎蔵界大日如来坐像は、鎌倉時代のものであった。

 密教では、この世界は胎蔵界(理=存在)と金剛界(智=法則)で出来上がっていると見る。そして究極的には両者は一体とされている。

 両方の世界の中心にいるのが大日如来である。胎蔵界大日如来は、この宇宙の一切の存在や現象を母胎のように包み、母のような無限の慈悲を与え続ける仏様とされる。

 この間、真言密教の僧侶の本を読んで、はっと思うところがあった。

 仏の智慧は完全だが、完全な智慧は世界を焼き尽くし、存在しなくしてしまうという。

 考えてみれば、我々を取り巻くものは不完全なものばかりである。この世は諸行無常で永遠に存在するものはない。不完全なものばかりである。我々の苦しみも、全てこの世界が不完全であるところからやってくる。

 かといって、永遠に生きたところでこの世が不完全であることに変わりはない。試しに自分も含めて周囲の人々が、全員永久に存在するところを想像すると、その不完全さに気づくだろう。

 地獄や天国があったとしても、それも人間が不完全だから存在するものである。

 形あるものは、その時点でどこかが不完全である。もしこの世界に完全があるとすれば、それは完全な無だろう。

 だがそれでは面白みがないので、仏は、この宇宙に少し不完全な要素を残した。この不完全、不純な部分から、我々を取り巻く世界が生まれて存在している。そしてこれこそが仏の慈悲だという。

 我々が一喜一憂している苦しみに満ちたこの世界が、仏の慈悲から生まれたというのなら、堪忍してくれと思いたくなるが、そんな思いも含めて、全て胎蔵界の中にあるのなら、仕方ないと諦めるより他はなかろう。