鶴田藩の西御殿跡から西に行き、津山市油木北(ゆききた)にある奥の前古墳を訪れた。
油木北の小さな寺院の駐車場から、古墳への山道が続いている。
道を進み、墓地を過ぎると、説明板が目に入る。その説明板の前に、4世紀後半に築造された前方後円墳の油木北奥の前古墳がある。
全長約65メートルの古墳で、ここからは全国で3例目となる鉄製鎧・竪矧板皮綴短甲(たてはぎいたかわとじたんこう)が発掘された。
写真では分かりにくいが、現地で眺めると、結構明瞭に前方後円墳の墳形を認識できる。
近年の発掘では、ここから円筒形埴輪の破片が見つかっている。美作地方では珍しい円筒形埴輪を有する首長墓とされている。
4世紀後半と言えば、神功皇后の時代だ。ここにどんな人が埋葬されたのか、その人が大和王権とどのような関係があったのか、興味が湧く。
次に訪れたのは、岡山県久米郡美咲町打穴西(うたのにし)にある唐臼墳墓群である。
唐臼墳墓群は、昭和40年に発掘された。
斜面を利用して築かれた、古墳時代後期から奈良時代に至るまでの墳墓群である。古墳時代の墓が3基と奈良時代の火葬墓が1基ある。
古墳時代後期の古墳で最大のものは1号墳である。6~7世紀にかけて数回埋葬された跡のある古墳で、墳丘は崩れて石室が露出している。
それにしても、地上に露出した石室を見ると、その風化度合いが歴史のロマンを掻き立ててくれる。なかなかいいものだ。
墳墓群の最上部には、奈良時代の火葬墓の跡がある。
方形二段に築成された盛り土の上に、蔵骨器を納める穴を穿った花崗岩製の外容器と蓋石が置かれている。
火葬した人骨を蔵骨器に納め、その蔵骨器を外容器の穴に納めて、蓋石を被せたのだろう。
長い日本の歴史の中で、墓にも様々な変遷があったことだろう。奈良時代の埋葬方法の一つを知ることが出来た。
「岡山県の歴史散歩」を読んでいると、この唐臼墳墓群の近くにある天台宗の寺院、普光寺にも外容器があるとのことだったので、訪れてみた。
この寺は、霊亀元年(715年)に行基菩薩が建立した寺院であるらしい。聖武天皇の勅を受けて、諸国を行脚した行基菩薩が、この地の樹下で一夜を過ごした時、樹の中にあった枯木に霊威を感じて、その枯木を刻んで千手観音菩薩像作った。そしてここに寺院を建立して安置したのだという。
普光寺の境内を隈なく見て歩いたが、どこにも外容器らしきものは見当たらなかった。
諦めて帰ろうかと思い、境内外の公衆トイレに行くと、トイレの前に蹲(つくばい)が置いてあった。
唐臼墳墓群の外容器に似た形の石は、普光寺の敷地の中にこれしかない。どうやらこの蹲が、外容器らしい。
奈良時代の火葬墓用の墓石が、こんな風に無造作にトイレの前に置かれているのが面白いと感じた。
考えてみれば、我々が気が付いていないだけで、古代の遺物がぽんと街中や山中や道端に置かれているかも知れない。
特に石造物や盛り土は、制作年代が分らないものが多いので、気づかれず放置されているかも知れない。
立派な城や寺院よりも、盛り土や石に時代を感じることが出来るようになったら、史跡巡りも益々面白くなることだろう。