妙見山日光院 前編

 11月3日の文化の日に但馬を訪れた。ついこの間も但馬に行ったばかりである。

 現在私は、播磨に隣接する摂津、淡路、備前、美作、因幡、但馬、丹波の7か国を順に巡っているが、冬が来て降雪する前に北の旅を終えておきたいので、間を置かずに但馬を訪れることにした。

 最初の目的地は、兵庫県養父市八鹿町石原にある真言宗の寺院、妙見山日光院である。

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妙見山日光院

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日光院山門

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 日光院は、標高約1139メートルの妙見山の麓にある寺院である。

 妙見山は、妙見大菩薩が鎮座する霊山とされている。妙見大菩薩は、日光院の本尊として祀られている。

 妙見大菩薩は、北斗七星を神格化した仏教の天部の神様の一つである。インド伝来の神様ではなく、中国において、道教北極星及び北斗七星信仰と仏教が結びついて誕生した神様である。名に菩薩が付くが、帝釈天や大黒天と同じ、仏法を守護する天部の神様とされている。

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苔の生えた道

 日光院の妙見大菩薩は、一年を通して北の夜空に見える北斗七星と同体とされている。寺紋は七つの星を象った七曜紋である。

 太古より万物の運勢と天体の動きには密接な関係があるとされてきた。星宿の帝王北斗七星と同体の妙見大菩薩は、万物の運勢を司る神様(仏様)とされている。

 私が日光院を訪れた時は、紅葉が進んでいて、色づいた葉と境内を覆う緑の苔が非常に美しかった。又、妙見山に朝靄がかかっていて、空気も清澄であった。いい時期に来たものだと喜んだ。

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紅葉に色づく境内

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 境内に何の木か分らぬが、根が盛り上がった落葉樹があった。大きな木の根を見ると、自然の力を感じる。

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境内の巨木

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落葉樹の根

 妙見山日光院は、古くは石原山帝釈寺日光院と称していた。妙見山は昔は石原山とも称していたようだ。

 寺伝によれば、創建は古く、敏達天皇元年(572年)である。初世日光慶重が開基したとされる。
 第四世重光の時代に本尊妙見堂、本地仏薬師瑠璃光如来を本尊とする薬師堂がこの地に建立されたという。

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苔の覆う境内

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 妙見山(石原山)は、全山が日光院の境内で、今妙見山の中腹にある名草神社と有名な三重塔も、明治の廃仏毀釈までは日光院の一部であった。

 中世、近世には、下総国の相馬妙見、肥後国の八代妙見と並んで、但馬国の石原妙見は、日本三大妙見とされ、信仰を集めた。

 鎌倉時代以降、武将の信仰を集め、山陰の守護大名山名家を始め、諸国信者の寄進が相次ぎ、但馬、因幡、播磨、丹波、丹後に荘園を持つようになった。

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護摩

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修行大師像

 最盛期には山中に十の塔頭寺院を数えるまでになった。

 しかし、天正年間(1573~1593年)の秀吉の但馬攻めの際に、羽柴秀長の攻撃により、妙見尊本殿、薬師本堂を残して焼失してしまった。

 寺は衰微したが、高野山釈迦文院の高僧朝遍阿闍梨が日光院第35世を兼務し寺院の復興に尽力した。

 その弟子第36世快遍阿闍梨は、寛永九年(1632年)に、妙見山の山腹に妙見大菩薩を祀り、日光院の奥の院とした。これが今の名草神社の発祥である。

 快遍阿闍梨は、元の寺域に成就院という塔頭を復興した。

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護摩

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護摩堂内部

 慶安元年(1648年)には、徳川家光により御朱印地三十石を賜った。

 日光院の本尊の妙見大菩薩は、護摩堂の奥に建つ妙見尊本殿に祀られている。その手前に護摩堂があるが、妙見尊本殿に対して、神社の拝殿のような位置づけである。

 護摩堂の奥の窓を通して、その奥に鎮座する本殿を拝むことが出来る。

 護摩堂の向かって左側には、江戸時代前期に慈性法親王が寄進した「妙見宮」と揮毫した扁額が掲げられている。

 この護摩堂の傍にあるイチョウは、樹齢約600年の巨木であった。

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護摩堂脇のイチョウ

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境内に落ちるイチョウの葉

 このイチョウは、秀吉軍の攻撃で炎上する寺院や、その後復興された寺院を眺めてきたことだろう。

 日光院は、明治の廃仏毀釈の際に、明治政府から妙見大菩薩信仰を捨てて、全山を妙見信仰と何の縁もない名草彦命を祭神とする名草神社にするよう迫られた。

 妙見信仰の廃絶を危惧した地元の檀信徒が、明治9年に今の名草神社に置かれていた仏像、経典、法具、蔵書、寺宝を麓の成就院に移した。それが今の日光院である。

 明治政府による神仏分離令は、各地の寺院を廃絶に追い込み、日本文化に一大変化を来した出来事だが、今ではその記憶も薄れている。先人の苦労を思うばかりだ。
 境内を散策すると、「お助け地蔵」という地蔵の石像があった。

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お助け地蔵

 通常の地蔵菩薩は、錫杖と宝珠を持っているものだが、このお助け地蔵は、錫杖の代わりにスコップを持ち、宝珠の代わりに飯盒を持っている。

 この石仏は、日光院第53世光裕上人を記念して建てられたものである。

 光裕上人は、高野山真言宗教学部奉職中だった29歳の時に、阪神淡路大震災に遭遇した。

 上人は、高野山真言宗が被災地に派遣した救援隊の1人として懸命に働き、被災地住民を助け、励まし続けたという。しかし翌年、30歳の若さで遷化した。

 ボランティアを共にした彫刻家の岡倉石朋氏がその姿に感銘し、上人の姿をお助け地蔵として刻んだそうだ。
 真言密教は、全ての人の即身成仏を目標としているが、現実には全ての人が悟りを開くことは困難である。人にはそれぞれ素質や性格に違いがある。しかし、悟りを開けない人も助けなければ仏教の意味はない。

 弘法大師空海は、教えを理解したり悟りを開くことが出来ず、現実の世界で苦しむ人々を助けるため、祈禱により雨を降らせたり、井戸を掘ったり、土木工事を行って溜池を築いたりした。大師が築いた讃岐の満濃池は有名である。

 真言密教は、加持祈祷を行うので、荒唐無稽な呪術的宗教と思われがちだが、人の性質に合わせて救いの手を差し伸べる極めて現実的な側面を持っている。

 仏教では悟りを開いた人を如来と呼び、発心し悟りを得るために修行する人を菩薩と呼んでいる。
 観音菩薩は、悟りを開いた如来の境地にいながら、現実世界で苦しむ人を救うため、敢えて菩薩の位に降りて人を救い続ける仏とされている。
 光裕上人は、一人で覚りを目指すだけではなく、現実の世でどろどろになりながら人を助ける菩薩の道を実践されたのだろう。

 そのような生き方に憧れるが、実践するのはなかなか難しいものだ。