大宝山芳心寺

 樗谿公園の出入口から出て、狭い道を北上し、鳥取市馬場町にある日蓮宗の寺院、大宝山芳心寺の門前に至った。

大宝山芳心寺

 この寺は、天文十三年(1544年)に、京都妙顕寺第十世僧正龍華院日廣上人が備前国庭瀬口に開基し、正福寺と称した。

 その後、正福寺は岡山藩の祈願所となり、寛永九年(1632年)の池田光仲の国替えに従って、岡山から鳥取に移転した。

塔頭完龍院

 宝永五年(1708年)に光仲夫人の芳心院が江戸にて死去し、武蔵国池上本門寺に葬られた。

 正徳三年(1713年)に、芳心院の分骨が正福寺にも埋葬され、その際に寺号が芳心寺に改められた。

 塔頭として、完龍院、本慈院が隣接しているが、今はそれぞれ別の宗教法人となっている。

境内

塔頭本慈院

 境内を進んでいくと、正面に開運妙見大菩薩を祀る社が見えてくる。

開運妙見大菩薩の鳥居

開運妙見大菩薩

開運妙見大菩薩の扁額 右は鬼子母善神、左は開運大黒天の扁額

開運妙見大菩薩の本殿内

 日蓮宗の寺院には、妙見大菩薩鬼子母神護法善神といった神様を祀っていることが多い。

 日蓮宗寺院は、神仏習合ならぬ神仏同座の寺院のようだ。

 開運妙見大菩薩を過ぎると、本堂がある。

本堂

向拝の彫刻

木鼻の彫刻

蟇股の彫刻

 芳心院は、紀州徳川家徳川頼宣の次女である。頼宣は、家康と家康の側室お万の方の子である。

 お万の方が、法華信者で、信心が篤かったため、身延山久遠寺第二十二世日遠上人は、お万の方に宗祖日蓮上人の分骨を分与した。

 お万の方は、その後孫娘で、信仰心の篤い芳心院に日蓮上人の分骨を授与した。

日蓮上人の分骨を祀る日蓮大聖人御真骨堂

 芳心院は、上人の分骨を、芳心寺に納めた。

 境内には、その日蓮上人の分骨を祀る真骨堂がある。

 この分骨があるためか、芳心寺は因伯日蓮宗第一の名刹とされ、総本山身延山の別院で、山陰身延と呼ばれている。

 また、境内の客殿の向拝には、葵の紋と揚羽蝶の紋が彫刻されている。徳川家、池田家の両家に所縁の深い寺院であることを現わしている。

客殿

客殿向拝の彫刻

 真骨堂の右側から、墓地に上がっていく石段が始まる。

 この石段を上がると、芳心院の分骨を埋葬する墓所がある。

墓地へ続く石段

 石段を上がっていくと、右手に芳心院殿妙英日春尊霊と刻まれた墓石がある。

 これが、藩祖池田光仲公夫人芳心院の墓である。

芳心院の墓

 芳心院の墓から更に石段を上がると、左手に雖井蛙(せいあ)流の剣士松田秀彦の墓がある。

 松田秀彦は、嘉永五年(1852年)に鳥取藩士の子として生まれ、鳥取藩士として戊辰戦争に参戦し、明治10年には警視庁隊員として西南戦争に派遣された。

 その後不平士族と大久保利通暗殺事件に関与したとして投獄されたが、出所後は海軍、警察、監獄、学校などで剣道の師範として剣道を教え続けた。

松田秀彦の墓

 昭和14年に87歳で死去するまで、剣の道に生きた武術家であった。

 分骨という習慣を見ると、日本人にとって遺骨は大切なものであるようだ。

 客観的、科学的に見ると、遺骨はただの物に過ぎないが、そこに何か犯しがたい貴重なものを感じるのは、人間の情のしからしめるものである。

 人の情は、只の物だけの世界を、特別に彩っている。