日光院の参拝を終え、そこから妙見山の中腹まで伸びている細い舗装路を走る。
妙見山の中腹にあるのが、江戸時代まで元の日光院だった名草神社である。
明治元年に明治政府によって出された神仏分離令によって、寺院と神社が一体化している各地の寺社は、分裂を余儀なくされた。
明治政府は、江戸時代に誕生した復古神道を国教とし、神社神道の純化を進めることとした。
そのため、神仏習合思想の下、外国から渡来した仏教と習合した寺社は、国家から忌み嫌われたのである。
特に被害を受けたのは、権現のような、仏教由来の神様を祀る寺院であった。
神様を祀るなら、寺院ではなく神社になるよう国からの指導が入った。金毘羅大権現を祀る讃岐の象頭山金毘羅大権現は、明治に入って金刀比羅宮という大物主神を祀る神社にされてしまった。
金毘羅大権現に祀られていた仏像が、破却を免れ、今は備前の西大寺に祀られているのは、以前当ブログでも紹介した。
日光院も、妙見大菩薩という仏教由来の天部の神様を祀っていたため、明治に入って名草彦命を祭神とする名草神社にされてしまった。
日光院に祀られていた仏像等は、麓の成就院に移され、成就院が日光院を称するようになった。
そのため、名草神社には、日光院だったころの名残が今も残っている。
例えば境内には、「法華経」の文字を刻んだ石を納めた法華経塔が残っていた。
名草神社が寺院だったころの名残として代表的なものは、国指定重要文化財の三重塔である。
私は史跡巡りを始めてから、訪問した三重塔の数を数えてきた。この三重塔は、私が史跡巡りで訪れた21番目の三重塔である。
妙見山には、妙見杉という寒さに強い杉が密生している。こんな山奥の森林の中に、朱色の鮮やかな三重塔が建っているのは、感動的だ。
実はこの三重塔は、元々出雲大社に建っていたものなのである。
中世には、日本最大の社である出雲大社も神仏習合の影響を受けていた。天台宗の寺院の鰐淵寺が、出雲大社を管理する別当寺となっていた。
大永六年(1526年)、出雲の戦国大名尼子経久がこの三重塔を摂津大坂の宮大工に頼んで建設した。塔の部材は兵庫津から船で出雲まで運ばれ、出雲大社境内に塔が建立された。
寛永年間(1624~1644年)の出雲大社の絵図を見ると、境内に塔が建っているのが分る。
このころの出雲大社の本殿は、今の本殿よりも高い建物であったことも見て取れる。強靭な柱でなければ、この高い本殿を支えることは出来ない。
出雲大社は、寛文年間(1661~1668年)に「寛文の御造営」と呼ばれる画期的な再建事業を行った。
この際に、出雲大社は、従来の神仏習合を廃止し、仏教色を完全に払拭することになった。そのため、三重塔も破却されることになった。
出雲大社は、本殿を再建するための御造営用材を探したが、なかなか良材が見つからなかった。しかしついに但馬国妙見山の妙見杉が良材であることを知った。
出雲大社の使者が妙見山日光院を訪れ、妙見杉の購入を申し出た。日光院は出雲大社の用材になるならばと快諾したが、その際出雲大社に建つ三重塔が破却される予定であることを知り、日光院に譲ってもらいたいと交渉した。
出雲大社側も承諾し、寛文四年(1664年)、三重塔は出雲で解体されて船に積載され、日本海を渡って、香住にて陸揚げされた。
寛文五年(1665年)、三重塔は標高約800メートルのこの地に移築された。
この三重塔は、大永六年(1526年)の建築時に、松やケヤキ材で作られた。寛文五年(1665年)の移築時に、妙見杉を用いて補強されたそうだ。
私が訪れた時は、丁度修復工事中で、塔の扉が開いていた。おかげで塔の内部を覗くことができた。
本来なら仏像があるべき台座の上には何もなかった。明治の廃仏毀釈の際に、仏像は撤去されたのだろう。
三重塔は昭和62年10月に解体修理され、鮮やかな彩色が復活した。三重塔内部の柱や梁や舟肘木は、まだ鮮やかな色を保っていた。
三重塔の第一層の四つの軒隅では、力士像が軒を支えている。
大永年間の彫刻家にも遊び心があったようだ。
また第三層の四つの軒隅には、「見ざる、言わざる、聞かざる、思わざる」を表した四猿の彫刻がある。RX100の望遠性能の貧弱さから、アップで撮影出来なかったのが残念だ。
蟇股には梵字の彫刻がある。この三重塔が元々寺院建築であったことを示している。
かつて三重塔の脇には、妙見の大杉という樹齢約1500年の、途中で幹が二つに分かれた夫婦杉が生えていた。しかし、平成3年9月の台風19号による風速40メートル以上の強風で倒れてしまったらしい。
三重塔の脇に、妙見の大杉の幹が、神社建築風の屋根の下に保存されていた。
これほどの巨木を倒した強風が吹いたのに、三重塔が倒れなかったのは幸いであった。
妙見杉で再建された出雲大社本殿だが、延享元年(1744年)に建て直された。これが現存する国宝の本殿である。
残念ながら妙見杉の本殿は、もうないようだ。
それでも、妙見山の杉が結んだ日光院と出雲大社の縁(えにし)は、今も朱色鮮やかな三重塔として残っている。
この見事な三重塔を、今も拝める幸せを感じた。